2008年06月04日

●「御所」になりそこねた金閣寺 by Makiko

私の家は、京都北山の金閣寺から歩いて5分のところにある。町名は東御所ノ内町である。天皇の住まいであった御所からははるかに遠い場所であるが、なぜか、「御所ノ内」町である。「御所」もないのに、なぜ「御所ノ内」町なのか、ずっと疑問に思っていた。

京都の伝統産業の西陣織で有名な西陣も、応仁の乱のときに西軍が陣を構えていた場所であったという事実に由来した地名であることはよく知られているが、古い町では、その地名が歴史的事実の唯一の痕跡であるケースが多い。人は何の根拠もなく、ある場所をある特定の名前で呼ぶことはほとんどないからだ。

私は20代の頃、数年間にわたり、英語とドイツ語の通訳ガイドの仕事をしていたが、京都の観光スポットの代表格である金閣寺へは、おそらく200回以上、外国人客を案内した。金閣寺では、次のような説明をする。
「この建物は3層構造になっています。1層目は平安時代の貴族の住居である寝殿造りの様式です。2層目は室町時代の武家の部屋である書院造になっています。一番上の層は、仏教様式で、退位した将軍足利義満が坐禅を組んだ場所です。」
このようなガイドブックどおりの説明を、何も疑問に思わずに外国人観光客に対して行っていたが、ある時、これはとても奇異なことだと思うようになった。なぜ寝殿造が書院造の下になっているのか。日本では、歴史を通じて、時の権力者が誰であっても、天皇家が一番上の身分であった。武家は天皇家に仕える立場である。武家政権が一番安定していた江戸時代でも、例えば二条城の「勅使の間」では、朝廷からの使者が上座に、そして将軍が下座に座るようになっている。それが日本の歴史の常識である。だが、金閣寺ではその常識が当てはまらない。天皇家や公家を象徴する寝殿造が、武家を象徴する書院造の下に作られているのだ。これは、何か特別な意味があるに違いないと思った。

その疑問は井沢元彦氏の歴史書を読んで氷解した。井沢氏は、足利義満を「天皇になろうとした将軍」であったと解説している。足利義満が明の皇帝から日本国王の称号をもらったことはよく知られているが、どうも本当に天皇に取って代わって、名実ともに日本の最高権力者になろうとしていたらしい。金閣寺建設はその計画の一端であったという。と言っても、創建当時のそれは、現在の金閣寺とはまったく異なるものだった。義満は、現在の金閣である建物(舎利殿)を中心に広大かつ豪奢な政庁、北山第を建設した。それは政庁であるとともに、貴族や武家の社交場であり、天皇の御所や室町幕府の花の御所を凌ぐものだったという。そして、そのシンボルである金閣は、一番下に寝殿造り(天皇、公家)、その上に書院造(武家)を置いた。そして、一番上が仏教様式であるのは、義満が仏を崇拝していたという理由ではない。当時、義満は出家しており、法皇格であった。つまり、一番トップは自分だということである。非常にわかりやすい。残念ながら、義満は自分の野望を遂げる前に死亡してしまう。天皇側の謀略により暗殺されたという説もある。彼の政庁も、本当の意味での「御所」になりそこねたのだ。

さて、人間が何かを作る時、特に権力者が何かを作るとき、必ずそこには自分の思想や理念が反映するものである。金閣寺の例を見ても、義満がわざわざ大金をつぎ込んで、寝殿造りと書院造と仏教建築の単なるサンプルを示すはずがない。その配置にこそ、大きな意味があったのだ。歴史的な建造物を見るとき、「・・・・はこのようになっています。」という説明を、ただ、「ああ、そうなんだ。」と納得するのではなく「なぜ、そうなんだろう。」という疑問を持つべきである。そこに歴史の真実の姿が浮かび上がってくる。

金閣寺から数百メートルのところにある東御所ノ内町に住みながら、14世紀の終わりから15世紀にかけて、ここは義満の政治の中心地で、義満本人が歩いたり話をしていたに違いないと思うと、なぜか楽しくなる。もちろん、この町名がそのような由来をもつのかどうか、真偽のほどは定かではないが。

posted by justice_justice at 10:18 | TrackBack(0) | □教養ーまきこ先生が語る | 更新情報をチェックする
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