2014年01月17日

<BOOK>John Grisham Litigator  2011 <BOOK>John Grisham Litigator  2011

<BOOK>John Grisham Litigator  2011
 キャリーバッグの中に必ず原書の小説が入っている。中でも,グリシャムの法律家小説は安心感をもって読めるので,よく行動を共にする。もっとも幾つかの作品を厳密に読み込むと,駄作と圭作になる。だが,クリアな(日本人にも分かりやすい)英語で,テンポの早いストーリー展開によって,法の世界のフィクションをまとめている。だから,海外の本屋であれこれ悩むくらいなら,と彼の本を選んでキャッシャーに運ぶ。
 もっとも,その割に,ポケットブックを開き始めてから,電車の行き帰りなどに読むだけなので,最後の頁に来るまでに2月〜3月と時間のかかる,のんびりした読書にもなるが,まあ,やむをえない。
 さて,”Litigator”。
主人公David Zincは,トップローファームに就職できた,ハーバード出身のトップローヤーであったはずだが,ある日,時間制で稼ぎを積み上げなければならない,その生活に嫌気がさして飛び出してしまう。
 向かった先は,しがない中年男ふたりが,Ambulance Chaserなどで仕事をするうさんくさい法律事務所。なにを思ったのか,ある大手製薬会社販売のある薬が副作用を起こすと見込んで,集団訴訟を構える。が,とんでもないガセネタつかみで,訴訟費用ばかりかさむが,勝訴の見込みなし。連邦地裁での陪審員裁判も放棄。未経験のDavidが後始末をするはめになり,事務所経営は破綻。先輩格ふたりの人生も破綻する,,,,
 その伏線として,Davidは,メイドの孫,ミャンマー人の子どもが,鉛中毒になっており,その原因が外国製のおもちゃであることを突き止めている。そして,この輸入元は,アメリカの大手玩具メーカー。見込みのない薬害訴訟で落ちこんでいる一方で,主人公は,玩具メーカー相手に訴訟をほのめかす。
 薬害訴訟には敗訴となるが,玩具メーカーは,巨額の和解に応じて一件落着。しかも,密かに,ライバル会社の問題ある玩具のリストの提供も受けた。かくして,古き良きFineley & Figgは解散し,ロートル2人は,和解金の分け前で隠退。Davidは,独立して,Class Actionの専門家として意気揚々と明日に臨む,,,,
 こんなストーリーだ。おもしろいし,元気が出てくる。また,海外に出たときに,グリシャム本を数冊ため込んでおこう。
book litigator.jpg

posted by justice_justice at 00:13 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2013年01月24日

『生きているうちに見つけてくれた』ー心に残る言葉

 Book Asahi Com に、芥川賞を受賞した、黒田夏子さんの受賞記者会見の模様が掲載されている([掲載]2013年01月17日)。そのシンボルとなったことばが、胸にほんとうに響く。

 「生きてるうちに見つけてくれた」

――まず今のお気持ちを一言。
 大変感謝しています。ずっと、こういう年齢になってから、ということにためらいがありまして、若い方のお邪魔になってはいけないと思ったんですけれども、もし例外的な年齢でこういうことになりまして、それが他にもたぶんたくさんいらっしゃる、長年隠れているような作品を見つけるきっかけになるならば、それがひとつの私の役割なのかと思って、喜んでお受けしたいと思います。生きているうちに見つけて下さいまして、本当にありがとうございます。

 彼女の本、ぜひ読もう。
posted by justice_justice at 16:55 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2012年01月23日

『トムソーヤーの冒険』ー40年ぶりの原典

「トム、トム」。返事がない、、、この名句ではじまるトムソーヤーの冒険。初めて訳文を文庫本で読んだのが、確か中学1年か2年か。まだ冬になればたっぷりと雪の降る札幌に居た頃だ。そして、原文で読んだのは、京都で大学時代を過ごし始めた1年目ではないかと思う。それからかれこれ40年近くが経つが、これも、ふと思いついただけのこと、その原典をもう一度読み返すことにした。"nigger"などの差別用語を古典文学からも削除する動きがアメリカで活発になっているといった記事を目にしたためであろうか。簡単に手に入る内にもう一度原典の見事さに触れておくことにした。例のごとく、通勤電車を書斎代わりにした読書で読み上げた。心に残るのは、「インジャン・ジョー」が洞窟で死体で発見される場面の記述だ。鍾乳石を切ってポトンと落ちる水滴をためて飲み水にした、その光景。
tomsawyer00.jpg

ピラミッドがまだ完成したばかりの頃、トロイが陥落した頃、征服王ウイリアムがイギリスを創建し、コロンバスが航海に出た頃も同じリズムでたゆむことなく水滴を垂らして、鍾乳石と石筍を作り上げる自然の悠久の営みを、トムが生涯恐れなければならなくなったインジャン・ジョーの死の背景に織り込む見事さ。この後の1万年の間もやはり水滴をしたたらせ続けるのであろうか、と問う。少年トム。イタズラと機知と、悪賢さと正義観とがひとつになった「アメリカン・ボーイ」。将来は、軍人と法律家になるのがよいと、ベッキーの父であるサッチャー判事は願う。むろん、その将来は語られていない。少年トムは永遠にそのままであり続ける。うらやましい。もう生涯でこの作品を読み返すことなく、一生を終えることとなろう。よき作品だ。
posted by justice_justice at 13:07 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

『神は天にいまし、すべて世は事もなし』ー赤毛のアン

■ 近くに居る人のメールにこのメッセージが入っていた。懐かしい。アンの最後の言葉ではないか。しかも、いかにも「今」のブログ編者のポジションに似つかわしい。思わず、苦笑した。
 記録に留め、一部、署名にも使うこととした。


Anne's horizons had closed in since the night she had sat there after coming home from Queen's; but if the path set before her feet was to be narrow she knew that flowers of quiet happiness would bloom along it.
The joy of sincere work and worthy aspiration and congenial friendship were to be hers; nothing could rob her of her birthright of fancy or her ideal world of dreams. And there was always the bend in the road!

"'God's in his heaven, all's right with the world,'"

whispered Anne softly. softly.



posted by justice_justice at 21:13 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2011年12月30日

『ガリバー旅行記』ー原書講読

ガリバー旅行記。
 「小人の国」での冒険で知られるスイフトの名作。ブログ編者も50年以上前に、小学館の子ども絵本で読んだ記憶がある。海峡を歩いて渡り、敵国の戦艦を紐でくくって引っ張って奪い取る冒険談が強く心に残った。
 が、実は、全編を精読したことはこの年になるまでなかった。しばらく前に、「ラピュタ」と「ヤフー」の二語に心引かれるものを感じた。このため、この際原書を通読することとした。
 小人の国では、敵の軍船をそっくり奪ってきたのにも拘わらず、宮廷内の争いから、反逆者扱いにされる主人公。理不尽な扱いに嫌気をさして敵国に渡り、そして、小人の国を離れる。
 空中を飛ぶラピュタ。しかし、地上では、意味のない「プロジェクト」を推進する「ラピュタ」の学者達。排泄物から、元の食品を作り出す実験を繰り返す奇妙な知的集団の存在。
 巨人国・ブロブディンナグから、「フイーナム」と「ヤフー」へ。馬と人の対比が面白い。
 理性的であり、道徳的であることが存在そのものであるフイーナムにとって、悪徳、詐欺、、、など反道義的であることという事実も、これを記述する言語もない世界。ガリバー船長がもっとも嫌うヤフーの属性は「高慢」であること。「ヤフー的」な消極的属性は、すべてここから発する。
 小人、巨人、ラピュタの住人、馬の理性人、、、「人」を巨視的大局的に見る達観。swift.jpg永遠の名作であり続ける所以であろう。
 大学受験の時からであろうか、受験のためだけの英語学習に嫌気がさして、「原書を読む」決意をしたのは、、、。サマセット・モームの『人間の絆』を受験時代に読み上げたのが、逆に英語力強化の自信につながったことを覚えている。以来、2,3の原書ー小説から研究書までーをいつも併行読書している状態が続いている。もっとも、さほどの読書家ではないのだが、、、

posted by justice_justice at 07:53 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2011年11月10日

■『海の都の物語』ー1000年の「都市力」「市民力」「国家力」

venezia00.jpg


 塩野七生の力作、1000年を超える「都市」ベネティアの歴史物語。
 ほぼ読み終えた。

 「都市力」を考え、国家力を見通す、よきものさしである。
 
 なによりも、誰もが、海洋国家日本の行く末をみる「ものさし」
 として読んでいること。これが、この本の価値を高める。

 民主党政権のふがいなさと、これを変えられない市民力の足りなさ、、、
 東アジアにおける軍事的不安定に、外交でも、経済でも、そして、肝心要の
 軍事力でも、リーダーシップをとれない国家力の弱さ、、、

 国家日本が「滅び」の道にいち早く落ち込むのを避けるメカニズム。
 これを、読み取りたい気持ちで読む本だと思う。


 ベネティアが生まれ、栄えて、イタリアに統合されていく雄大な歴史。
 塩野七生文化論の傑作の一つ。
 
 
posted by justice_justice at 07:11 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2011年09月24日

■イギリス国教会を創った男ーヒラリー・マンテル『オオカミ・ホール』

ヒラリーマンテル著『オオカミ・ホール』ーHilary Mantel, Wolf Hall(2009)ーを読み終えた。電車の行き帰りなどを使った通勤読書。1年ほどかかったか。時は16世紀のイギリス。ヘンリー8世の統治下。自己の離婚問題に端を発して、イギリス国教会を設立して、ローマ教皇の宗教的支配から離脱。植民地支配を核にする世界に冠たるイギリス絶対主義国家に向かう初期。本の主人公は、そのヘンリー8世の宰相であったトマス・クロムエルの生い立ちと、宮廷での活躍を描く。ヘンリー8世の離婚を支持し、国教会設立をサポートする政治の動きを背景に、クロムエルの生活の日々を追う。クライマックスはイギリス国教会設立に反対したトーマスモア(『ユートピア』の作者)の投獄と処刑。そこで、伝記は終わる。この後、歴史は、悲劇を生む。ヘンリー8世はやがてクルムエルを反逆者として処刑することとなるのだが、そこは描かれていない。また、後に、清教徒革命の後、国王を追放して議会中心の政治を作るオリバー・クロムエルは、姉の子どもの子である。ポケットブックで652頁。難解な英語。中世のロンドンを中心とする風物、、、しかも宮廷生活の叙述が入る。四苦八苦して読んだので、かなり時間がかかったが、おもしろかった。早川書房から訳本が出ているらしい(作者: ヒラリー・マンテル,Hilary Mantel,宇佐川 晶子/出版社/メーカー: 早川書房)。
wolf-hall.jpg

posted by justice_justice at 06:44 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2011年09月01日

■『無縁社会』ー日本社会の崩落現象

『無縁社会』。NHK「無縁社会プロジェクト」取材班著。文藝春秋社。

muen000.jpg


 21世紀の日本が底辺から崩壊していく社会の姿を示す言葉。NHKの取材チームが執筆。無縁死、行旅死亡人、「単身化の時代」、「おひとりさま」の女性、直葬、生涯未婚、、、いろいろなキーワードで「孤立化した個人」とその無縁死という孤死の実情を描き出す。
 230〜231頁の次の言葉が重い。
 ある孤独な生活を送る35歳の男性の語り。「、、、ただあまり人に会わない生活っていうのも、正直言って、居心地のよさっていうのもあって、なかなか動けないという状態ですよね」。
 つまり、「誰とも交わらず、誰でもひとりで生きていくことが簡単にできる時代。もちろん、ひとりで生きていくことは無縁死の危険性をはらんでいることは「無縁社会の」の取材を通じて分かってはいるが、こうした暮らし方が心地いいと感じていることも、また事実なのだと思う。・・・」 
 資本の論理が、会社の利益追求に役立つ個人のありかたを作り出す、その結末としての「孤独」至上の「感情」。
 居心地観で、生活のあり方、人との関わり方を極めてしまう感性が普通になる文化を創り上げるまでに、個人を浸蝕したもの、、、、このブログでは「巨神兵」と名付けている「企業=組織」。
 それが、大量の「一人」を生んでしまい、人の再生産ができない状態を生み、自らの首を絞めるようになっているのに、なお個人を食い尽くすまでその活動をやめない魔物。
 血縁、地縁、学校縁、内回りの社縁(職場内の人間関係)、外回りの社縁(会社取引先との人間関係)、、、、本来は、重層的階層的に個人を守り育てる人間関係であるはずのものが、会社=企業=組織の利益追求の前に、個人を完全に分断し、その労働力を搾取する構造がしみ通った社会。
 自滅への道を確実に歩み始めている21世紀日本に、どう歯止めをかけ、さらに発展・前進・希望・建設、、、「展望」を語る社会に代えることができるのか。これが課題になる。
posted by justice_justice at 06:38 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2011年07月16日

■『太平洋の奇跡』ーOBA, The Last Samurai by Don Jones

ドン・ジョーンズの大場大尉のサイパンでの闘いと投降を描いた作品を読み終えた。

OBA, The Last Samurai,Saipan 1944-45
 
映画『太平洋の奇跡』の原作。映画の感動とほぼ同じコンテンツが一冊の本に収められている。
青野看護婦は、原作では死ぬ。捨てられた村に生き残った赤ん坊は双子であった。その後は、原作には語られていない。しかし、サイパン守備隊の組織的防衛戦が終了後1年以上にわたり敗戦の年12月まで山中に籠もり、民間人を守り、残存兵士をまとめて、最後に47名が投降する劇的なエンディング。
「武士道」が人の倫理であり得た日本の最後の世代の物語りなのかもしれない。

Oba00.jpg

posted by justice_justice at 12:41 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2011年05月29日

■最近読んだ本ー現実と非現実

○『消える大学、生き残る大学』(木村誠、朝日新聞出版、2011年)
 「大学のありかた」か。
 大学が消えてなくなること。
 それがありえる時代になっている。
 「危機管理」という消極面からではなく、「理念ある教育」「志ある学生」を掲げる
 「積極経営」の時代なのだが、、、「教授会自治」の世界には浸透しない「価値観」
 なのだろうなとも思う。だから、結局、「あれ!? ぼくのだいがく、消えちゃった!」
 ということになるのだろう、、、勤務先については、そうならない工夫をしたい。


○『アポロド−ロス・ギリシア神話』(高津訳・岩波文庫、改版1978年)
 
 神戸市立博物館、『大英博物館、古代ギリシア展』、見学済み。
 つい気の向くままジュンク堂にたちより、ギリシア・ローマ神話を探す。
 とりあえず見つけた、面白くもおかしくもないビブリオテーク版、の
 ギリシア神話。が、それだけに、神話の迫力もある。「殺」と
 「死」の世界。なのに、神と人の世界ができあがる迫力。

greek00.bmp


○『ギリシア・ローマの神話』(古田敦彦、筑摩書房、1996年版)

 これが、中学の頃に何度も読んだギリシア神話の版なのかな、とも思う。
 但し、恋愛と失恋の物語り、、、情緒的にすぎるのが難。が、面白い。

posted by justice_justice at 13:50| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2011年01月13日

■目から鱗が落ちる瞬間、目に鱗が付く瞬間ー多田容子氏の本から

■多田容子『自分を活かす古武術の心得』(集英社新書、2008年)から

「よく古武術の考え方は『目から鱗』の発想だという。実際、そうだと私も思う。目から鱗が落ちた瞬間を、我々は知ることができるが、一方で、目に鱗が付く瞬間というのは分からない。おそらく、放っておけば長年のうちに鱗がどんどんと重なり、目が曇るということだろう。・・・・・常に目から鱗をはがし続けられるような経験や稽古をしよう。はがれたら、次の鱗を付けず、素直な目でものを見、感じてみよう。偉いとか、物知りだと言われるより、気持ちがあらたまる快感を知ろう。そうしていれば、いつか、自分の意思で自分の心身の曇りを取り去ることができるようになると、私は信じている。」

 なるほど、と思う指摘の多い本であった。

*kaolin先生の紹介による。
 http://blogs.dion.ne.jp/kaolin/archives/cat_340373-1.html
posted by justice_justice at 23:10| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2010年08月01日

□20世紀刑事司法を語る本ー『生涯被告「おっちゃん」の裁判』

*本日のブログ関連写真
http://justice.netspace110.jp/blog/blog_100801.html

■21世紀の刑事司法は、裁判員裁判の制度化に代表される。キーワードはふたつある。
 まず「市民中心主義」。正義を決定するプロセスに、市民自身が参加する制度ができたことだ。次に、「立法の時代」であること。戦後制定された刑事訴訟法が岩盤のように動くことなく、官僚裁判官、官僚検察官、そして擬似官僚組織である日弁連が運用を独占していた時代から、国民の代表が集まる国会が、司法改革の骨格となる立法を作る時代になった。
 では、20世紀の刑事司法の特徴はなにか。キーワードは、二つだ。
 「必罰」と「えん罪」だ。
■ここに、元山陽放送の記者がまとめた『生涯被告「おっちゃん」の裁判』(平凡社刊、2010年)がある。1980年にまず600円の小銭窃盗で起訴されたことから事件が始まる。被告人は、森本一昭。1999年12月に64才で亡くなる直前まで、以後、「被告人」の立場に置かれることとなる。19年に渡る窃盗事件の裁判。
 なにが問題であったのか。
 彼は、聴覚障害があり、健聴者とのコミュニケーション手段を持っていなかった。
 裁判の意味を被告人が理解できず、これを被告人に伝えられない究極の裁判が始まった。
 裁判は二転三転する。理由は簡単だ。「犯人必罰」が戦後刑訴法を担った官僚法曹の基本的発想法であったからだ。
 犯人とみてよい証拠がある以上、処罰する。
 手続が公正、適正に実施できないとき、刑事裁判では、市民を処罰すべきではない、このような適正手続主義を我が国の官僚法曹はことのほか嫌う。
■ 森本氏の場合、前にも裁判を経験している。聴覚障害者でも、なんどか刑事裁判の経験があれば、その都度理解したかどうかは別にして、わかっていたはず、とみて、有罪判決を押しつけて刑務所に抛り込む。
 「裁判所が、被告人はわかっているとみなすことができれば、よい」。
 職権探知、犯人必罰、被告人の権利軽視、、、、。
 森本被告人に、裁判の複雑な意味を伝えることはムリ。被告人と弁護人との防御方針に関する打合せと被告人の権利に基づく防御方針の選択を求めることはムリ、、、但し、彼は日常生活は見よう見まねで送ることができる。買い物にはお金を払うこと、喫茶店では割り勘であること、ホテルではホテル代を出るときに払うこと、、、
 しかし、生活ができることと、「刑事裁判の防御」ができることは異なる。その基本は、コミュニケーションだ。手話も通じない。戦後の混乱期に幼少期を迎えた。充分なろう教育を受けていない。
■ 裁判所は、有罪無罪の判断をすることができないとして、思い切って公訴棄却とした一審の判断、これを破棄して、公判停止に留めるべきだとする控訴審の判断、、、我が国刑事手続が求める被告人の有するべき訴訟能力の程度について、当事者追行主義を徹底する立場から、被告人と弁護人の打合せを基準とする考え方と、裁判所が提供する情報を受けとめることができれば足りるとする職権探知主義を基準とする考え方の対立、、、
 司法官僚が与えた答は、永久に被告人のまま公判手続を停止しておくことであった。
 森本氏は、裁判所の最終判断が出た頃から、腫瘍に悩まされる。そして悪性腫瘍ー癌であることが分かる。
 弁護人が最後に懸命の努力を遂げるー余命幾ばくもない森本氏を被告人の座に留めることに本当に意味があるのか。検察庁が公訴を取り下げた。裁判所は、手続を打ち切った。公訴棄却の決定。
 それから3月後、森本氏は亡くなる。

 この本は、思いで深い。
 二審の頃から、曽根氏の取材に何度も協力させてもらった。公判も傍聴に行った。森本氏とも同席した。人なつっこい「おっちゃん」の笑顔が今も忘れられない。
 「手続」が正義であること。21世紀にはこれを貫くべきだ。
 世紀をまたいで受け継ぐべき課題がまだ残る。
 それを次代に引き継ぐ本だ。

posted by justice_justice at 23:27| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2010年07月31日

『南十字星の下で』ジュディ・ナンーオーストラリア小説

本日のブログ関連写真
http://justice.netspace110.jp/blog/blog_100731.html

 ジュディ・ナンの『南十字星の下で』を読み終えた。実は、数年がかりであった。本を購入したのは、前回オーストラリアに調査で出かけた2005年である。アレクサンドリア通りにある、今もクリアにイメージを記憶している本屋ーで買った。「ローカルオーサーのオーストラリアものの小説はないか」という質問に答えて、店員が進めてくれた本だ。海外にでるとき、こんな質問を書店ですることにしている。
 ただ、なかなか手にとって読み込むサイクルに入れないまま書棚に積んでいたのだが、昨日ようやく読み終えた。
 
 1783年にトマス・ケンダルが父等とともに、住居侵入窃盗で捕まり死刑を宣告されるところから小説は始まる。その後、オーストラリアに流刑となり、そこから新大陸でのケンダル一族の物語が展開する。
 実に216年に渡る一家とシドニーの発展の叙事詩。
 最後に、トマス・ケンダルがアボリジニーの友人に譲った後、うやむやにされた土地が、ふたたび、シドニーオリンピックを前に控えて、権利が戻されるところで終わる。
 その権利回復を担ったのは、むろんトマス・ケンダルの流れを汲み、イタリア人と結婚したキティ・ケンダルの息子、ロベルト・ケンダル弁護士であった。
 そして、その式典に参加したアボリジニーを代表する、陸上競技選手、ジャロッド・ケンドルには、実は、トマス・ケンダルの息子が、メイドに雇ったアボリジニーの女性との間で産んだ子どもとその一族の血が流れているのであった。
 血が受け継がれ、元にもどる場面で、小説は終わる。

 読み応えのある一冊であった。

posted by justice_justice at 09:45| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

■フィギュアー『ローヤー』変身

仕事場に、フィギュアがある。
『変身』ものだ。
理由は、簡単だ。

http://justice.netspace110.jp/blog/blog_100527.html

『ローヤー』とは、バッチをつけたときに、『正義の味方』になるからだ。生身の人間としては、弱かったり、強かったり、生意気だったり、謙虚であったりといろいろだ。しかし、仕事は、バッチをつけてする。
そのとき、変身する。正義の実現。これだ。

そんな大切な仕事のシンボルなのだが、おりおりこの仕事場で、テレビのインタビューに答えていると、
『先生、ちょっとあの人形、よかしてくれませんか』と注文を受ける。

こちらとしては、手元において、大写しにしてほしいのだが、、、、
posted by justice_justice at 16:38| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2010年05月05日

■閑話休題ー『不思議の国のアリス』と通訳

『不思議の国のアリス』。彼女が、女王の首切り命令を逃れた公爵夫人と話をしているとき、夫人はアリスにこういう。

http://justice.netspace110.jp/blog/blog_100505.html

 "I quite agree with you,"said the Dutchess; "and the moral of that is ---"Be what you would seem to be"----or, if you'd like it put more simply---- "Neve imagine yourself not to be otherwise than what it might appear to others than what you were or might have been was not otherwise than what you had been would have appeared to them to be otherwise."

 こんな公爵夫人が万が一にも日本で犯罪を犯さないよう願いたい。彼女を的確に通訳できる通訳人を裁判所が雇うことができるか心配になる。
posted by justice_justice at 08:21| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

■サイモンとガーファンクル(End)ーサウンドオブサイレンス

 音楽シーンの乏しいブログ編者の音楽話である。そして、これもありきたりの話。
 サイモンとガーファンクルの名曲。今はネットで豊富な情報が得られる。曲を発表したときのコンサートの様子(?)もある。この曲も長く心に残る。

「静寂」の音。
「沈黙」の語り。
「虚無」の響き。

 いろいろな訳とともに、意味を持つ。
 "silence"をどう理解するのかによって、歌の意味も変わる。卑近なところでは、「黙秘権」の効果もついこの歌とあわせて考えてしまう。
 
 また数年後、数十年後に、聞きたくなるのだろうと思うが、その時にはどんな時代状況になっているのであろうか。

■サイモンとガーファンクル
CDのタイトル写真から

simon&garfunkel_s.jpg

■You Tubeのサイトから
http://www.youtube.com/watch?v=eZGWQauQOAQ

■歌詞
Hello darkness,my old friend,
I've come to talk with you again,
Because a vision softly creeping,
Left its seeds while I was sleeping,
And the vision that was planted in my brain
Still remains
Within The Sound Of Silence.

In restless dreams I walked alone
Narrow streets of cobblestone.
'Neath the halo of a street lamp,
I turned my collar to the cold and damp
When my eyes were stabbed by the flash of a neon light
That split the night
And touched The Sound Of Silence.

And in the naked light I saw
Ten thousand people,maybe more
People talking without speaking,
People hearing without listening,
People writing songs that voices never share
And no one dare
Disturb The Sound Of Silence.

"Foole" said I,"You do not know
Silence like a cancer grows
Hear my words that I might teach you
Take my arms that I might reach you"
But my words like silent raindrops fell,
And echoed
in the wells of silence.

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning,
in the words that it was forming
And the signs said,"The words of the prophets are
written on the subway walls
And tenement halls"
And whisper'd The Sound Of Silence.

posted by justice_justice at 09:05| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2010年01月31日

『明日に架ける橋』ーサイモンとガーファンクル

■音楽シーンがあまり生活にないのが、ブログ編者の実情である。
 ただ、いくつかの歌とサウンドトラックがいろいろな時代と場所と人との関わりで、心に染みついている。
 誰もが知っている著名な曲、『明日に架ける橋』もそれだ。
 "Bridge Over Troubled Water"
 英語の単語の組み合わせの「深さ」にも新鮮な感動を覚えた。その訳はもっと見事だ。「明日に架ける橋」。
 "troubled water"
これは歌を聞く人がそれぞれの思いを込めて、自分に引きつけて理解するのだろうと思う。
 ブログ編者の世界で言えば、「刑事司法」の世界もまたひとつの"troubled water" であるのかもしれない。
 「混沌」を乗り切る「橋」。時代も社会もそれを求めているのだろう。
 だから、ふと、ツタヤの前を通ったとき、このCDを借りたくなったのだと思う。

■You Tubeのサイトから
http://www.youtube.com/watch?v=GYKJuDxYr3I&feature=related
<歌詞>
When you're weary, feeling small,
When tears are in your eyes, I will dry them all;
I'm on your side. when times get rough
And friends just cant be found,
Like a bridge over troubled water
I will lay me down.
Like a bridge over troubled water
I will lay me down.

When you're down and out,
When you're on the street,
When evening falls so hard
I will comfort you.
Ill take your part.
When darkness comes
And pains is all around,
Like a bridge over troubled water
I will lay me down.
Like a bridge over troubled water
I will lay me down.

Sail on silver girl,
Sail on by.
Your time has come to shine.
All your dreams are on their way.
See how they shine.
If you need a friend
Im sailing right behind.
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind.
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind.

posted by justice_justice at 09:25| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2010年01月24日

多元主義宣言ー21世紀のもののみかた

100123_03_ls.bmp

 2010年1月22日から23日にかけて、様々な体験と思いがブログ編者の中を駆け巡った。
■22日早朝。
 朝日新聞の朝刊をみて背筋が凍った。「14法科大学院『不合格』」という扇情的な見出し。朝日新聞のスクープだ。文科省が設置する中央教育審議会の中にさらに特設された「法科大学院特別委員会」の1月報告の結果だ。新聞は「通信簿」がつけられたと揶揄する。14のロースクールは「大幅な改善が必要な大学院」とされ、12校は「改善努力の継続が必要な大学院」と分類されたという。文部科学省幹部の談話として「法科大学院の役割を果たしていないところが少なからずある。決断していただくのも仕方ない」ということだ、という。
 「決断」。廃止を念頭に置いた決断しかなかろう。
 文部科学省の法科大学院に対する要求は高い。しかもその基準を短時間のうちに高めてきている。それに追いつけない法科大学院は落ちこぼれるしかない。設置当初の基準で「自由競争」に委ねるのではなく、「あるべき法科大学院」モデルについてこない法科大学院を振り落とす形で、質の確保を図ろうとしている。
 某関西の法科大学院の責任者を務める身として、その大波に翻弄されながらも、ローヤーになろうとする夢とロマンを持つ冒険家に、チャレンジの場を提供し、ローヤーとして正義を実現するハードなプロとしての職務に耐えられる基礎体力をともに築いて行きたいと思う。
 我々は、沈まない。正義を語り、ベンチャーとしての企業を心がけるローヤーを世に出すインフラを築く。

■22日午後。
 大阪の福島にある法務省の建物2階の会議室。「第11回法整備支援連絡会」が午前から引き続き行われている。
 「法整備支援」。日本は、今、ベトナム、カンボジア、ラオス、インドネシア、ウズペキスタンなどの法整備について専門家を派遣してその援助を続けてきている。「外交」の異色の側面であり、ローヤーが外交の表舞台に立つ場面でもある。そして、学者にとっても「比較法研究」を1980年代までの古典的なものから全く異次元のものへと作りかえていく「現象」である。
 発展途上国の法制度の整備を支援する。
 一見、分かりやすそうな概念だが、一歩、踏み込むと訳が分からなくなる。日本法を輸入するのではない、各国の独自性を活かした法制度を積み上げる。権力機構、権力者、為政者を支持し支援するのではなく、法制度の発展に援助をする。日本の国益のための外交関係を結ぶのではなく、その国のインフラを内在的に構築する、、、、

100123_04_lawdevelop.bmp


 そこに必要な視座は、従前の比較法研究の視点ではない。国家主権をまだ前提にしているが、多文化共存を前提にした、多様な正義の模索である。世界市民が主人公とまではいわないが、汎市民主義に基づく法の正義の追及である。
 従来の比較法研究は、単純である。

  『欧米法』ー『日本法』=X
  ∴ Xを導入すべきである。

 つまり、「引き算」法学である。
 だが、Xの妥当性の検証は必ずしもなされることはない。欧米文化の優越を前提にした先験的な方程式を前提にしている。だから、我々ブログ編者が研究者の道を歩み始めたとき、比較法と言えば、学界の定説として、アメリカかドイツをするべき、であった。
 しかし、連絡会のパネリスト慶応大学のM教授の言葉を借りると、国内法整備であってもインターナショナル、グルーバルな視点無しにはできない時代になっている。
 比較法研究は「引き算」法学では意味をなさない。むしろ、多様性をそのまま多面的に浮き彫りにして、多元的な価値実現を目指す複合的立体的総合的な研究がいる。法整備支援は、その実践である。実践を支える理論の構築が、あらたな比較法の世界を広げる。
 それこそ真のグローバリズムであろう。引き算法学を解体し、「幾何学」比較法が必要になる。刺激的な数時間であった。


100123_05_ippuo.bmp

■22日、深夜。
 福岡、天神。一風堂大名本店。ここしか出さない「かさね味」を注文し、食べながら考えた。数年前からしばらくここのラーメンこそ抜群と思った。前にきたとき、麺の上にのるキャベツに疑問を感じてから足が遠のいた。そのときに食べたときにはことのほかキャベツの甘みがラーメンとミスマッチと強く感じた。「甘い」。
 今回もそう感じた。しかし、うまかった。やわらかさが身に染みる気がした。そして思った。「なるほど、名の通り、大名味だ」と。体がかなり疲れ、ホテルに戻ってそのままぶっ倒れて寝込んでしまいたい、その前に空腹を満たすのにラーメンを選ぶなら、ここに来る。「大名味」を選ぶ。前回は、かなり攻撃的な気分で所用を終えた直後の訪問であった。そのときに、ここの味は物足りなかった。
 ただ、残念だが、そんなマイルドさをラーメンに求めることはない。ここに来ることは相当長期間にわたりないと思う。但し、繰り返すが、ラーメンの味、かなりよい。おすすめであることは間違いない。間違いなくうまかった。そして、そのうまさを求める精神構造をもつことは許されない立場にある。


100123_05_seinan.bmp

■23日、午後。
 福岡、西新駅近く、西南学院大学法科大学院棟、2階、法廷教室。
 司法通訳のための模擬裁判員裁判研修の第4回目。昨年09年8月に大阪ではじめた研修会は、その後10月に東京、11月に名古屋と回を重ね、今回5回目を福岡で開く。
 西南学院法科大学院は、九州で堅実な法科大学院として定評がある。冒頭の通知簿をもらってあしざまに非難されたグループには入っていない。
 アフガン人の被告人が現住建造物放火事件で起訴された裁判を実施。ペルシア語通訳人に協力してもらい、また、裁判員に聴覚障害者がいるという想定で、手話通訳者グループにも協力を得た。ふたつの通訳が進行する異色の模擬裁判であった。
 「コミュニケーション」。
 これを我が国の法律家は正しく理解し切れていない。何故なら、通訳人の質保障を行うことなく、便宜上運用上通訳人に登録した者をベテランとみなして使い続けているからだ。
 だから、誤訳が生まれる。これは裁判員裁判のとき致命的だ。何故なら、証拠調べの直後に、評議室に入り、法廷で耳にした通訳情報をもとに、心証を形成する。
 あやまった通訳が与える事件と被告人に関する歪んだ情報が基礎にされる。これを正す時間も方法もない。
 だからこそ、裁判員裁判では、相当の研修を積んだ実質的に実力のある通訳人を複数配置し、こまめにー15分から20分ごとに交代させつつー審理を進めるべきだ。
 それが、できていない。ベテラン通訳人ほど、裁判官から「もう少し大丈夫ですか。もうちょっとですが、休憩しますか」と言われると、「いえ、大丈夫です」と答えることとなる。かくして、自ら「疲労」という誤訳の最大の原因を自ら招く。
 「プロは正当な休憩を求めなければならない」。
 通訳人研修とともに法律家の通訳人を使うこつを学ぶ研修も実は必要だ。しかし、江戸時代以来の通辞をボランティアか大道芸の延長にしかみないような価値観が残っているような文化の中には、正しい意味での通訳学、通訳論そして通訳人研修は生まれない。
 だが、この状況を改革しなければならない。「質高い通訳保障」が裁判員裁判の課題だ。


100123_05_taiho.bmp

■23日、夕方。
 博多、天神を南に、西鉄福岡のある三越ビルをまたいだ高架下ヨコに「大砲ラーメン」。こってり味をベースにチャーシューと煮玉子をトッピングに追加。餃子と定番の白ご飯を併せる。うまい。
 味の濃さがよい。麺の堅さがよい。煮卵がうまい。精神の積極性を支えるラーメンである。
 定番の店をひとつ増やすこととする。明日行く予定の一蘭と、ここ大砲。秋葉原の金龍。
 共通しているのは、味のワイルドさであろう。マイルドな一風堂にはないものだ。
 ラーメンをすすりながら、思った。ロースクール、裁判員裁判と司法通訳、法整備支援、、、、と「世界」を観る視座を多様化し、複合化し、立体化していくこと。
 「一店ひと味」のラーメン店は、この世界だからこそ意味があること。しかし、権威ある伝統校のリーディング・プロフェッサーでもない、一私学の研究者は、とくに老齢になるにつれて、多様性と総合性が不可欠になる。
 「一匹子犬」に留まるのだが、世間は広く歩き回りたい、と思う。
 櫛田神社にお参りをしてホテルの帰途についた。
 何故か神社正面にはおたふくの面が飾られており、その口を通って拝殿に向かうようになっていた。
 なんの縁起なのであろうか、また調べておこう。


100123_05.bmp
posted by justice_justice at 00:44| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2009年08月30日

■ハープとオーボエー「蘊蓄なき趣味」


halp_00.bmp

 東京の都立高校で同学年であったY氏がごく近くにいる。そして、もう10数年来、彼が元町でコーディネートするミニコンサートに足を運んでいる。
 今日は、ハープとオーボエの組み合わせ。毎回1時間の短いものであるが、小さなコンサートで、演奏者も楽器もすぐと目の前に見ることができるし、演奏の終わりには、楽器その物に近寄って見ることができる。
 曲目も、通常のコンサートと異なり、Y氏のこだわりも加わる。今回は、ボクサのノクターン、ルストのソナタ、サンサーンスの動物の謝肉祭の他、ハープ、オーボエで聞く日本のメロディーとして、浜辺の歌など3曲。
 ただ音楽を聴くだけではなく、曲目、作家、楽器などなどの簡単な解説を総合司会を兼ねるY氏が語り、奏者も語る。オーボエがリート楽器で、リートは演奏者自らの手作りと知る。しかも、葦を使ってたくさん作るとか。リート入れに20本ほど仕込んでおかないと、長期の演奏会には持たない、、、なるほど。

 Y氏のコンサートでは、ブログ編者の心にも残るいろいろな楽器と曲目、奏者がいた、、、中国の風琴、日本の浪曲、フルートのみごとな演奏等など。
 但し、だ。これは「趣味」の世界だ。だから、自ら蘊蓄を傾けることは不要。実のところ、イメージとして残っている思い出を正しく再現する程の知識を残していない。
 2月に一度の1時間のコンサートでひとときを過ごす、憩いの時間。
 そして、子ども達が小さいときには一人で出かけていたが、今は、妻と二人で出かける。帰りに喫茶店により、ときに食事をする。そんな趣味の時間をすごしている。

 日本では「趣味」も、玄人芸に達していないと、「趣味」と呼んではいけないという変なルールがある。が、馬鹿げたことだ。趣味は趣味。楽しめればよい。
posted by justice_justice at 00:04| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2009年08月20日

■『カイロ三部作』ーナギーブ・マハフーズ


Naguib00.jpg

 カイロ三部作。そして、ナギーブ・マハフーズ。実のところ、エジプト近代文学が「ある」とは推測してはいたものの、全く知識を欠いていた。
 3月にカイロ入りした。現地留学中の日本人女性学生にガイダンスを依頼した。単なる観光ガイドではなく、文化と歴史のガイドとして依頼した。
 カイロ・アメリカ大学のキャンパスにも案内してもらった。そこで、書籍部に立ち寄ってあれこれ話をしながら、エジプト文学の代表作を推薦してもらった。
 マハフーズ。
 その三部作。まず、これがお薦めであるという。
 アラビア語の英語訳。
 Naguib Mahfouz
"Palace Walk" "Palace of Deisre2" "Sugar Street"
Mr.Ahmad Abd al-JawadとAminaの間に生まれた
Fahmy Kamal Khadija Aisha そして、al-Jawadの前妻との間の子、Yashin。3人の男の子、2人の娘。
 7人の大家族の長。家での権威主義と、外ので享楽主義。異なる人格を自然にもつエジプトの男。
 その一家の日々を丹念に追う私小説。
 内面の掘り下げ、恋愛と不倫と、、、。
 そうした生活のバックにおりおり出てくる第1次世界大戦後の植民地エジプトの独立運動と、カイロの町並み、、、
 総頁にすると、三冊あわせて1228頁の長編小説。
 うち第2冊目を読み終えて明日から3冊目に入る。
 少しおもしろい異文化を英語版で楽しんでいる。

 マハフーズの英語版は、The American University in Cairo Press から手にはいる。

posted by justice_justice at 23:11| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2009年02月02日

■On "King Lear"ーこのおやじ、何者か? by Gishu

 シェークスピアのリア王について、まだ考えている。
 「イギリス国王」として1幕1場から登場する「リア」。
 どんな「おやじ」であったのか。どんな「偏屈王」であったのか。リアの「妻」または3人の娘の「母」はどうしたのか。3人の娘はいかに・誰が育てたのか。王国分割を、家族としてはどう受けとめていたのか・・・・。
 ゴネリルとリーガンがリア王に反逆を始めるのを感じ取った最初の場面で、次の科白がでてくる。リア王が感じている「怒り」の中味を表す科白なのだろう。
■第1幕5場ーゴネリルがリア王をたしなめ、リア王がリーガンの元へ飛び出す直前のこと。 
O let me not be mad, not mad, sweet heaven!
Keep me in temper; I would not be mad!
How now! Are the horses ready?
■第2幕4場ーもっとも重要な場のひとつ!リーガンの元で来たが暖かな歓迎はなく先に使いにだしたケントが緊縛されているのを発見し、苛立ちながら、リーガンの謁見を待つ、その時の心境をこう語る。
 O, how this mother swells up toward my heart!
Hysterical pasio, down, thou climing sorrow!
Thy element's below. Where is this daughter?
■第2幕4場ー娘ふたりの、リア王にとっての裏切りが明白なっていく過程。王国分割時の約束であった100名の騎士の随行を娘ふたりは、次々に減らす。100名など要らない、50名で十分。そして、25名も要らないのではないか。10名でも、いや5名でも、、、、そして、最後に、リーガンの科白。「一人も要らないでしょう」。リア王は、こう述べる。
 O, reason not the need! Our basest beggars
Are in the poorest thing superfluous.
Allow not nature more than nature nee ds---
Man's life is cheap as beast's・・・・・
■3幕2場ーリア王の怒りは「嵐」と重なる。自然界の嵐と一体となって自己の怒りを表し、慰めをもらい、やがては死ぬ。5幕3場の死の場面の背景も、おそらくは「嵐の収まった直後のあらあらしさ」か再度の「嵐の前の静けさ」のどちらかであろう。
 Blow, winds, and crack your cheeks! Rage! Blow!
You cataracts and hurricanoes, spout
Till you have drenched our steeples, drowned the cocks!・・・・・

3人の娘は、要するに、おやじのわがままのために、お互いに殺し合い、自殺し、一家は崩壊する。それを見届けてから、リアも死ぬ。その男は、どこに行き着いたというのだ?
「悲劇」と分類されるが、これと別に「怒劇」とでもいうべき分類はないものかー観客が、「リア、おまえ、なにやってんだ!」と怒り狂う劇、、、

 そういえば、今手元にあるペンギンブックスのリア王の表紙の挿絵も嵐の中のリア王である。

KingLear&Yamazaki01.jpg

posted by justice_justice at 09:06| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

■『リア王』と『俳優のノート』ー09年1月の読書ーシェークスピア異聞 by Gishu


KingLear&Yamazaki00.jpg 親しくしている女性研究者の薦めで、『俳優のノート』山崎努を手にした。今年1月1日のことである。
 昨年の12月末三宮のジュンクに照会すると札幌の支店に文庫本が1冊在庫しているという。1月1日、湊川神社に初詣をした後、三宮へ。
 ジュンクのあるビルの上の階にまわり、喫茶店でバラバラと文庫本のページをめくっているうちにふと気づく。
 あわせてリア王を読もう。
何故なら、俳優のノートは、1998年1月に公演したリア王の役作りの話だからだ。俳優が、どうやってリア王に取り組むのか。その役作りの物語り。
日記風に、配役決定から千秋楽までの内面の動きが語られる。そして、山崎版『リア王』評論ができあがっている。

「リアは捨てて行く男である。リアの旅は、所有しているものを捨てて行く旅である。」
「リアの女性嫌悪は明らかに『母』からきている。」

 そのリア王は、コーディリアの死を前にして、「憤死」または「悲死」する。
 
And thou no breath at all? Thou'lt come no more;
Never, never, never, never, never.
Pray you undo this button. Thank you, sir.
Do you see this? Look on her ! Look, her lips!
Look there! Look there

、、、と叫びながら、リアは死ぬ。

 「He dies」 と挿入されているト書きがリアの悲しみを本の上からも表している。
 これを山崎は舞台ではどう表したのか。

「4大悲劇」の読み解き。ハムレットとリア王は、共通性と異質性を持つ。
リアは、独特の女性蔑視、嫌悪、拒絶感のために、結局、王国を混乱に陥れるだけではなく、すべてを失う。
娘3人は、それぞれが殺し合い、自殺する。そして、それを知ったリアも、死ぬ。命の源が断たれたためか。
拒絶の対象を失ったとき、自らも滅んでしまうほどの、喪失感に打ちのめされたのだろう。
 そんなリアを俳優として内面化して演ずる。
  「リアとの旅はスリリングだった」
  「リアよ、さらば」
 今日1月29日、俳優のノートの最後の行を読み終わり、すかさずリア王のペンギンブックをひもとく。
 コーディリアがフランス軍とともに上陸し、リア王と再開した場面で一度止めていた目通しを再開。
 乗っている新快速が、おりる駅に着くまでに読み終えた。
 1月29日、午後10時。同日にはじめた併行読書を終了。
 次にロンドンに行くとき、シェークスピア、リア王の軌跡をたどってみよう。
 
 
posted by justice_justice at 23:57| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年08月27日

■グラシャム『最後の陪審員』ー「アメリカ」が解る本 by GISHU

■ John Grisham The Last Juror(2004)を読み終えた。
電車の行き帰り、新幹線の往復やちょっとした待ち時間に読み貯めたものだ.
7月23日から8月26日まで1月強かかった。おもしろかった。
■ アメリカ、南部、ミシシッピー州のフォード群、クラントン市が背景だ。シラキュース大学でジャーナリズムをちょっとかじった学生、ウイリー・テイラーが地元の小さな週間新聞社に雇われる。1年も経たずに会社が傾く。ウイリーは、祖母に頼んで買収資金を提供してもらって社主に収まる。当初のもくろみは、大学時代のあるきわめて優秀な学生ニックのこんなコメントであった。彼は、医学でも法学でも専門を極めればすぐれた能力を発揮すると思われたのに、父親が経営している地方のごく小さなローカル週間新聞の経営をするためにもどるという。何故なら、、、、
 「おやじが小さな週間新聞から毎年どれだけ稼いでいると思う。たった6千部だ。しかし、金鉱脈なんだ。地元のちょっとしたニュースのみ。結婚の案内、教会の集まり、表彰者、スポーツのイベント、地元野球チームの写真、ちょっとした料理のレシピ、ちょっとした訃報そして宣伝をたっぷり。少し政治を入れてもいいが、論争はさけておく。それでどれだけ儲かると思う。おやじは億万長者だ」。
 ウイリーの場合、結果として同じ道を歩む。1970年に買収し、79年には1500万ドルで大手新聞社に売却できたから。その過程で、「陪審」裁判が登場する。

LastJuror00.jpg
■ 子供ふたりがいる若き未亡人が、地方の闇の一族、パジット家の息子ダニーに強姦され殺害される。数世代にわたり、密造、大麻、木材、建設等表と裏の世界でうごめいている一族が法の網にかかった。70年代を背景に陪審裁判が進行する。一族が陪審員を買収するかと思われたが、有罪の評決。しかし、死刑と無期の選択で陪審員は別れた。結局、無期懲役。しかし、当時の州法では仮釈放は容易であった。わずか数年を経てダニーは地元に戻る。その後に事件が起きる。陪審評議で、死刑に反対した3名の陪審員をねらった殺人事件。2名が死亡し1名が家に届けられた爆弾でケガ。パジット一族の復讐と誰もが思った。シェリフは裁判官と相談してダニーの逮捕状を出した。予備審問(保釈の可否を決定する手続)が開かれる。ダニーが再び法廷に立たされた。狙撃音。ダニー本人が射殺される。陪審員をひとりひとり殺そうとしていると疑われた本人が凶弾に倒れる。犯人は意外なところに潜んでいた。ダニーが強姦し殺害した被害者に好意を抱いていた副検事。法廷でも検事側チームを組んでいた人物。ハンクフッテンは統合失調症でもあったためか、裁判後長く被害者とその子ども達の幻聴幻覚に捕らわれていた。そして、凶行を決意する。
■ 70年代の南部のごくふつうの生活風景、その中で開かれる陪審裁判。裁判を巡る街の人々の動き。コミュニティーの結束力がよくも悪くも強い時代の様子。ほとんどの住民が教会に通う敬虔さと、トラックの後ろにはライフルを積んでいるのが当然の銃文化。週間新聞が語る地方の人々。遠景に登場するベトナム戦争。この町から出征した兵士の戦死。黒人と白人の対立と高校の共学化。奴隷制の頃から始まるある黒人一家の話。7人の子ども達が学者に育つ物語り。主人公とその家の女主との友情。ポーチでのランチ。ジャーナリズムを武器に悪しきもの、よこしまなものにぶつかっていく若き主人公。そして、それが巨万の富をもたらすアメリカンドリーム。

 「アメリカ」が解る本であった。
posted by justice_justice at 09:19| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年08月17日

■オフェリアの死と正当防衛ーハムレット異聞 by GISHU


Hamlet00.jpg
■ 手元に、"Hamlet" William Shakespeare, Penguin Shakespeare, Founding Editor T.J.B.Spencer がある。「ハムレット」である。
 先月来、電車の行き帰りに繙いて先日読み終えた。ハムレットの通読は、おそらく大学1回生か2回生のとき以来であろう。
 当時、京都河原町にあった丸善の2階、文学書のコーナーで購入した赤の表紙のポートフォリオ版で読んだと思う。それが、いわゆる"Second Quarto(1604)"であったのか、それとも"First Folio(1623)"であったのか、もう忘れてしまった。
■ 何故急にハムレットなのか、自分でもよく解らないまま、過日、三宮のジュンク堂を徘徊しているおりに、英文学のコーナーでふと目にとまった、この本をそのまま購入し、電車の揺れに身を任せながら、読み終えた。
■ 前にも読んで記憶に残る一節が、やはり目に止まった。オフェリアの死だ。彼女の墓を用意する墓堀人足のこんな会話だ。
人足1「彼女は、キリスト教徒として埋葬されるんかいな。自分で自分の命を絶ってしまったんだろう。」
人足2「言っておくがな、そうに決まってる。だから、彼女は墓は全うなものにしなけりゃならない。検死官殿がそのようにのたまわった。キリスト教の埋葬ができるんだとさ」
人足1「なんでそうなるんだ。彼女が自分を守るためにでも溺死せん限りできっこない」
人足2「なにいってんだ。もうそうだと認められたんんだ」
人足1「こいつは、正当防衛そのものに違いない。それ以外じゃありっこない。いいか、ここが大切なところだ。もし俺がわざと溺れてみろ。それは自分の行為ってことになる。行為というのはだ、3つの枝葉があるのよ。行なう、する、やり遂げる。で、それゆえにだ、そうであれば、彼女は、自分を溺死させたことになる」
人足2「まさかな。でも聞いてみようじゃないか、お人好しの墓堀りさんよ。」
人足1「なに言ってんだ。いいか、ここに水がある。ここに人がいる。いいな。で、人がこの水のところに足を運んで自分を溺れさせてみな。否が応でも、自分でやったことになるのさ。これを忘れなさんな。だが、水が奴のところに押しかけてみな。そして水がそいつを溺れさせてみな。だったら、自分で溺死したことにはならんだろう。いいかい、だったら、奴は、自分で死んだことで罪にはならないのさ、自分で命を縮めたことにならんから。」
人足2「それがきまり(law)ってもんかい」
人足1「おう、そうとも、それが、検死官殿が検査のときのきまりなのさ」
人足2「それがほんとのことだとおまえは思ってるんかいな。もし彼女が高貴のお方なんぞではなかったとしてみねい。キリスト教徒の埋葬なんかしてもらいっこなかったぜ」
■ 手元の原書を勝手に訳すとこうなる。どのみち、自分が納得できればいいから、多少の誤訳は無視しよう。17世紀初頭の刑法の一こまとキリスト教文化の関わりを物語るエピソードであり、法の本質の一端ー権力者のための法ーを語るものでもあり、興味深い。
 そして、シェークスピアの世俗をよく捉える目をここに感じ取ることができる。
■ "To be or not to be--that is the question"
あまりにも著名な成句。
 ハムレット流の懊悩が、この年でなんとなく解るような気にもなる。が、ついつい世俗的に考えてしまう。「世の流れに身を任せて時をまてばよいのに、、、。仇討ちなどと古風なことを考えるから、大勢の死ななくてもよい者を死なせてしまう、、、」。
 この悲劇は、自分で招いた悲劇だ。幽霊の血迷い言を信じたばかりに、、、、
 "O, I die, Horatio!"
かくして、ハムレットは、叔父王の仕組んだ罠にはまって毒の塗られた剣をもつオフェリアの兄、レアティーズに傷つけれて死に至る。直前に叔父王の殺害に成功しても、なんの意味もなかったではないか。
■ と、なんとも世俗的なハムレットの読み方をしながら、日本の、朝と夜の通勤通学風景の中で、イギリスの古典を読み終えた。おもしろかった。次に再読するのは、何年後になるのやら。そのときを楽しみにしよう。 
posted by justice_justice at 22:35| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年07月26日

■東大前のインド料理店ーナンとカレーのランチ by GISHU


munbai.jpg


 そういえば、過日、東大赤門前のインド料理店、『ムンバイ・本郷店』で、写真のランチを食べた。カレーとナンの組み合わせ。平凡なインド風ランチだが、ナンはボリュームがあった。
 赤門をみながらのランチ風景も味がある。
 ちょっとおすすめである。
posted by justice_justice at 18:08 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年07月25日

■アンソニーバージェスの『シェークスピア』論  by GISHU


shakespeare01.jpg
■Anthony BURGES "Shakespeare"を読んだ。初版は1970年である。KNOPF社のハードカバーで挿絵が豊富に入っている初版本が手元にある。これと別に2002年に発売されたペーパーバック本もある。通勤電車の行き帰りに読むものなので、目を通したのはペーパーバック本であり、おりおり心安めに挿絵を眺めるのにハードカバー版を開いた。手元に本が届いて半年ほどかかったか。
 
■実は、バージェスのシェークスピアを読むのは2度目だ。最初は、実に今から36年前のことである。
 当時、京大法学部に入り、その2年めの英語Uであったかなにか、ともあれ吉田キャンパスの教養部の専門英語科目で履修したのが、このバージェス版をテキストにするシェークスピア論であった。担当の先生の名前は忘れた。鼻の下に上品に髭を蓄えた、まだ若手の気鋭の研究者であったと記憶する。履修学生は4名程度ではなかったか。今、東京で弁護士として活躍しておられる某氏も教室におられたと記憶する。

■バージェスの英語は難解だ。受験時代に、受験技法を超える本格英語を目指して、サマセット・モームの『人間の絆』をポケットブックで読む作業を併行していたし、教養1回生時代は、「教養主義」を信奉し、京都の散策と、ランダムな文化・文芸書や、イギリス、アメリカの古典を原典で渉猟するのに時間を費やしていたのだが、それでも、バージェス版には辟易した。実は、36年たった今も、同じく難解さを感じながら、読み上げた。
 にも関わらず、シェークスピアの生々しい生活の姿を、エリザベス女王時代のイギリスとロンドンの中において描くタッチに「なるほど!」と感動しながら読み進んだ、漠然とした記憶のみが残る。

■実のところ、今回も、英語自体の持ち味から酌み取れた意義は少ない。これと比較すると、通勤カバンの中に今いれているJohn Grisham "The Last Juror"の英語は児戯に等しい。
 さて。シェークスピア論の結論。こんな結びになっている。

shakespeare02.jpg

 "We need not repine at the lack of a satisfactory Shapespeare portrait. To see his face we need only look into a mirror. He is ourselves, ordinary suffering humanity, fired by moderate ambitions, concerned with money, the victim of desire, all too mortal. To his back, like a hump, was strapped a miraculous but somehow irrelevant talent. It is a talent which, more than any other that the world has seen, reconciles us to being human beings, unsatisfactory hybrids, not good enough for gods and not good enough for animals. We are all Will. Shakespeare is the name of one of our redeemers"

■バージェス版で妙に解りやすい英語だけで表現された一節が最後のまとめになっている。シェークスピアといっても、普通に苦悩し、普通にがんばり、普通にスケベで、普通に死んでいった、そんな人物なのだ、、、とバージェスは釘を刺す。
 彼の死をバージェスは淡々とこう記している。
" The end came in April 1616. The Rev.John Ward's notebooks tell of a "merrie meeting " with Michael Drayton and Ben Jonson, Shakespeare ate too many pickled herringws and drank too much Rhenish wine. He sweated, took cold, and died."
偉大な才能の死の平凡な姿がそこにある。
 バージェス版シェークスピアはその意味で、「露悪趣味」といってもいいのかもしれない。だが、偉大な作品を描いたものが、そのままの偉大な人格である必要はないし、必然性もない。鰯の詰め物を食べ過ぎて、ワインを飲み過ぎて風邪引いて死ぬ人間の手になった膨大な数のドラマを、我々はいまも愛し続けている。
 前に勤めていた神戸学院大学の人文学部の英文学の老教授は、退職し伴侶と老人ホームに入ってから、『シェークスピアの一巻本』を毎日目通しするのを楽しみにしている、という記事をずいぶん前に某週刊誌に寄せられたのを記憶している。おそらく、自分の晩年もそうなると思う。元気なうちは、何度かロンドンに足を運び、シェークスピア所縁の場所など尋ね歩き、日本に戻って、オックスフォード版を読む、、、バージェス版はそのときにもう一度読み直そう。またしばらくはこの本は段ボール箱の奥に仕舞うこととする。
shakespeare00.jpg
posted by justice_justice at 08:40 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年05月27日

■広島旅行記ー原爆体験記、三輪車、お好み焼き


hiroshima04.jpg


■『原爆体験記』のこと
 この本が手元にある。『広島市原爆体験記刊行会編・原爆体験記』(朝日新聞社、1975年刊)。これを2008年5月24日、広島原爆資料館で買い求め、26日月曜日、霞ヶ関での用事を終えて、東京駅から明石に戻る新幹線の中で読み終えた。正確に言えば、、、再読し終えた。

■40年前のひとこまのこと。
 歴史をはるかに遡る。
 中学1年の頃といえば、いまから40年前か。昭和41年頃と思う。札幌の郊外にある市立白石中学校1年のとき、図書室が保護者父兄向け文庫を設けて貸し出すという。同校の卒業生であった兄等にその話をすると、なにか借りてこいという。そこで、なるべく難しそうな本を2冊選んだ。
一冊は『日本国憲法制定史』。今から思えば、平和憲法擁護の立場から憲法制定の成り立ちをまとめたものではなかったか。もう一冊が、白い厚紙を表紙にした、いかにも装丁の悪い、安物に仕上げた、『原爆体験記』であった。
 なにが、こんなタイトルの本を2冊も選ばせたものかよくはわからない。が、今に至る自分のキャリアと考え方の土台を思うと、どうも偶然の一致ではないように思う。


hiroshima00.jpg

 もっとも、劇的に人生を変えた2冊、というほどでもない。借りた2冊。案の定、兄二人は、卒業生として図書を借り出せたことに満足して、後は見もしない。日本国憲法史は中学1年生には難しすぎた。あきらめた。原爆体験記は、むさぼるように読んだ記憶がある。おそらく一気呵成に読んだのではないか。その悲惨な体験にざっくりと心をえぐられながら。

■広島のこと。
 この名前が心に刻み込まれたのは、この本によってである。当時、札幌の片田舎にいた自分には、内地(と北海道の人間は本州を呼ぶ)の遠くにある広島なる場所には行き方もわからず、行く術も資金もなくただただ遠い思いを抱きながら、原爆ドームを思い描いた。
 先日、勤務先法科大学院の関係で広島に出向いた。広島には、その後もおりおり訪れる。大学関係で広島の仕事があれば好んで選んだ。そして、必ず、平和公園には足を運ぶこととしている。


atomic-bomb.jpg

ドームと資料館、両方がどちらかに足を運ぶ。これから自分が死ぬまではそうすることと思う。今回のその一こまであった。いつもそうしているように、あの札幌で読んだ本はどうなったのかと思いめぐらしながら、ショップの本のコーナーを見ていた。「ある」。同じタイトルだ。装丁は朝日選書としてきれいになっているが、同じはずだ、、、胸の高鳴りを覚えつつ、開いた。記憶がよみがえる。中学1年のときに読んだ記憶がよみがえる。いくつかある。


■「浅ましい」と「貴女」のこと
 第1編に主婦の北山二葉さんの被爆体験が載る、その中の言葉だ。
 顔を含めて火傷を負った。避難の途中に偶然にも姉に出会い助けられる。そのとき、姉が、二葉さんをみて「可哀そうに、こんな浅ましい姿になって」という、その「浅ましい」という言葉が、当時読んだときにも聞き慣れぬ、読み慣れぬ言葉であったことを今も覚えている。「こんなふうに浅ましいという言葉を使うのか」と感じ入った。その記憶が、ショップでよみがえる。「これだ、この本だ」。
 第2編に県の事務員であった男性の手記がのる。ピカドンの一瞬前に、仕事に使う書類を事務所の地下庫に取りに降りる。それが幸いして助かったようだ。その地下庫に降りる直前のことをこう記していた。
 「下りる前に、自分はめがねを外し、財布をズボンのポケットから出し、そしてズボンのバンドに巻いてある鎖を解いて懐中時計を出し、机上にこの三点を揃えて地下室へ下りて行った。この品はもちろんみな焼いてしまったが、何故そんなことをしたのかは五年後の今日どうしてもわからない」。
 確か、当時住んでいた家の屋根裏を改造したウナギの床のような自分専用の部屋でこの箇所を読んで「くすっ」と笑ったのではないか。それで、この箇所をよく覚えている。当時13才か14才であったか。
 第3編。福屋ビルで軍関係の事務についていた当時21才の土井貞子さんが友人に助けられて命を長らえた手記もよく覚えている。何故なら、ピカドンの後、暗闇の中で、自分に声をかけた同僚がいる。「誰なの。私増本よ。貴女は」。また、「貴女歩ける?私は負傷していないから大丈夫・・・」。記憶に載っている理由は、ここにある。当時は、本は旧仮名遣いで印刷されている。漢字も旧字体であった。その中に「貴女」とある。実は、読み方が解らなかったのだ。「きじょ????」、名前か?なんだこれは?と思った記憶がある。「あなた」と読めばいいことを知るのは、もう少し後のこととなる。そして、今も繁華街の中央にある福屋百貨店がこの場所であることを知るのは、大学生になって広島をはじめて訪問したときのことであった。
■『三輪車』のこと


hiroshima01.jpg

 この体験記は、昭和25年に当時の広島市長が市民から募った手記から選書にしたものとか。
 しかし、占領軍の反対にあって出版できずに市役所の倉庫に眠っていたのをその後出版したという。ただ、自分が中学校の図書室から借り出して読んだ冊子は、どうも朝日新聞社が出したものではないように思う。札幌の田舎の中学校に昭和25年に占領軍が発禁にした冊子が届いていたのか、、、日教組はなやかりし頃なので、あるいはそうした関係で教師の誰かが保護者用文庫にそっとこの一冊をおいたものかもしれない。
 大学1年の夏にはじめて広島に行った。以後、数年に1度通っている。その内、資料館であたらしい展示品に接した。三輪車だ。鉄谷伸一君の三輪車だ。1945年8月6日、午前8時15分、家の庭で三輪車で遊んでいて被爆してその日なくなった3才11ヶ月の男の子。家族は、遺体を庭に埋めた。さびしかろうと思って三輪車も一緒に埋めた。1985年、父親が骨を掘り出して寺に納骨した。一緒に埋めた三輪車は、資料館に寄贈した。それが、展示されている。この三輪車の前に立つと、涙がとまらなくなる。

 「反戦、平和、自由と民主主義」。

 毎日毎日そんな顔をしているわけではない。また、これが生き方の原点とまでは言わないし、命を賭しても守る勇気もない。だが、とりあえず、この原理は守るつもりでいる。
 そして、この原点が芽生えたきっかけは、中学1年のとき、札幌の片田舎で読んだ『原爆体験記』である、と今更ながら整理しても、不自然でも、付け焼き刃でもないと思っている。
 当然ながら、、、平和公園の後は、お好み焼き村でお好み焼き〜全部入り〜を食べることにしているのも、私の原理である。

hiroshima03.jpg
posted by justice_justice at 00:25 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年04月20日

■社会のできごとと「識者コメント」の責任ー二つのネット配信記事から

■ネットをみていると、本ブログ編者としても関心を持たざるを得ない記事をみつけた。
 まず、毎日新聞/2008年4月13日/2時30分(最終更新/4月13日15時53分。
 これによると、「入学式:入学金未納の2人、出席させず/千葉県立高」というタイトルのもとに、千葉県の公立高校で、入学金未納の新入生2人を入学式に出席させない扱いにしたとの「社会のできごと」が紹介されている。関係者のこの事態に対する見解も紹介された。なによりも、校長先生は、
 「『入学式当日に必要なお金は3月の説明会で伝えている。経済的問題があれば相談するよう話した。苦渋の決断だったが、当然の判断だと思っている』と説明」。
 と紹介されている。他方、県の公立高校教職員組合は
 「非教育的対応」
 と考えていると紹介されている。
■さて、ここでのテーマは、「識者談話」である。
 このネット配信記事には、次の識者の談話が付されている。
 「教育評論家の尾木直樹・法政大教授(臨床教育学)は「極めて機械的、官僚的対応。学校側は2人だけではなく、生徒、保護者に謝罪すべきだ」と話している」。
■このコメントに対する社会の反応は、そう甘くなかったようだ。夕刊フジ配信(2008年4月19日16時47分)によると、上記コメントに強い批判があるという。
 例えば、、
 ○「規則を守らない保護者に謝罪しろとは何事か」
 ○「(尾木氏が教鞭をとる)法大は入学金未納でも入学式に出られるのか」
 ○「規則を執行するのに苦渋の選択と言わしめた校長の方が気の毒」
■編者の最大の関心事は、こうして自分の「識者コメント」が強く社会に批判されたときの、その識者の対応である。上記夕刊フジでは、尾木氏は、次のような説明をしたという。
***<引用>*****
 尾木氏は、滞納者に対する校長の気持ちも理解しており、授業料を払わずとも最後まで面倒をみろというつもりはないという。また、大学などと同様、入学式前までに振り込み期日を指定し、無連絡で未入金の保護者に事情聴取することで、今回の事態は回避できたと考えている。一方、「謝罪」の真相はこうだ。
 「謝罪というのは、今回の対応の真意と、騒動に発展した経緯を、全校生徒と保護者にきちんと説明するべきという意味で、単に『謝れ!』という意味で話したのではありません。特にネット配信の記事では、記者の編集という背景が理解されず、謝罪という言葉だけが一人歩きしてしまう結果となり、大変残念です」
*************
 しかも、上記記事では、「尾木氏だが、夕刊フジの取材に、『あの記事は記者の署名が入ったもの。本来は20分近く話した私の発言を、記事内容に即して編集した記者に聞いていただくのがスジですよ』とした」という。
■つまり、20分の取材で提供した情報を編集した記者ーしたがって、当該記事をチェックしたデスクそして毎日新聞が悪いのであって、自分のコメントがこのように要約されることを是認した自分にはない、ということのようだ。これは、よく新聞に短めのコメントを出す機会をもらっている編者としては、聞き捨てならない。
 「無責任極まる」と言いたい。
■新聞記事にコメントを出すのには、慎重でなければならない。
 新聞の性質上、一行=12字*数行しか割けない。その中に「識者」の責任において、つまりプロの責任において、市民社会が事件をみるのに必要な視点・視座・知識・価値観を提供しなければならない。ならば、長文の専門的な論文や本を書くのと同じ覚悟で「ショートアンサー」を公にしなければならない、といつも思っている。
 ブログ編者は、刑法と刑事訴訟法に関連する事件や裁判についてコメントを出すことが多い。
 被害者、被疑者・被告人、社会などなど事件に拘わる人々は多い。喜怒哀楽を伴う生身の事件について、新聞の性質上比較的短時間の取材で責任のあるコメントをまとめなければならない。時には、一方の関係者には厳しい内容になることもある。
 そうだからこそ、コメントのための取材の後に、必ず担当記者に念を押し、釘を刺す。
 「もしコメントを採用していただける場合、最後に載せる案が固まったら、必ず連絡をしてほしい。法的な問題なので間違いがあっては関係者に迷惑をかける」。
 このチェックがあっても、誌面に載るまでに他の緊急配信記事との関係や、デスクの最終チェックなどで字句の置き換えや行数削除はありえる。
 それでも、なお責任をとれる範囲の情報にまとめて「GO!」というのが、こうしたコメントを出す「識者」の責任だと思う。
 幸い、司法関係の記者は、時間が遅くなってもこの約束を守ってくれる。だから、こちらも、可能な限り誠実に取材に協力するようにしている。
 それでも、掲載紙を送ってもらった後に確認したとき、編者の意に染まないものになっていることがないではない。しかし、その場合に、「編集した記者の責任だ」などどいうつもりは全くないし、「あれでは真意が伝わらない」と抗議することもない。
 社会に対しても公になった範囲での言葉に責任を持つつもりでいる。

 教育評論家の尾木直樹氏はおそらく斯界では著名な専門家なのだと思う。
 しかし、その「識者コメント」に対する基本姿勢については納得できない。
posted by justice_justice at 11:59 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年03月24日

■「施無畏印・与願印」−西村公朝仏師と印相


nishimura_kocho00.jpg
■仕事柄、仏像関係の入門的な本が少し手元にある。なかでも西村公朝氏の仏像関係の本をいつも手元に置いている。
 読み始め、読み終わり、というよりもおりにふれて仏像のあれこれを知るために繙く。

 先日から、印相のうち、「施無畏印・与願印」のことがなんとなく気に掛かっている。
 というのも、編者が、何気なく説法などのために、印相を模するとき、左手を上に開き、右手を下方に開く「クセ」がある。
 が、通常、お釈迦様、阿弥陀様は、右手を上に上げて手のひらをゆったりと開き、衆生に向けるー「畏れ無きを施す」、つまり施無畏である。
 そして、衆生の願うところを与えるー「与願」を、左手を下に向けて手のひらを広げて置く。
 どちらの手をどちらにしてもいいといえばいいー各地の仏像など見ていると、左手=施無畏のものも少なくない。

 もっとも、多くは、観音など阿弥陀、釈迦の脇を勤める仏像だ。
 自ずと、自戒せざるを得なくなるー印相は悟りの格を示す。まだ、釈尊を真似て、右手を施無畏の位地における境地にはないことを体が示しているのだろう。であれば、そうしておこう。
 
 「説法印」ないし「転法輪印」。お釈迦さまが、悟りを開かれた後、最初の説法のときの印。
 「上品・中生印」であったという。これも、説法を聞く衆生の属性によって変えているとも聞く。また、悟りの深さを表すものでもあるようだ。
 説法印は、だから、「下品・下生(げほん、げしょう)印」を使うことにしている。

 世俗にまみれて、折々お経を読む程度のボーズが、「施無畏・与願印」で説法をするのは、100年早かろう。
posted by justice_justice at 05:14 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年03月23日

■「まっちゃまち」−大阪再発見!!松屋町「人形問屋」の街


macchamati.jpg 長堀緑地線・松屋町を降りると、そのスジに、「人形問屋」が並んでいることは、現にそこに降りたって初めて知った。
 雛人形と節句の人形。
 女の子用と男の子用。
 数段重ねの飾り雛に、精巧な鎧甲の武者人形。金太郎さん。
 ある傷害事件の現地調査との関連で、ちょっと立ち寄った場所でメインではないのだが、、、地下鉄を降りて、地上にでたときに、編者には意外な(他の人にはあまりに有名なことなのだろうが)街の雰囲気にちょっとうれしくなって、数ブロック見学。
 フーテンの寅さんが仕入をするような、おもちゃを売る店も数軒ある。
 人形を飾る風習も薄れた中、店は立ちゆくのかな?と余計な心配をしながら事務所に戻り、現地調査の結果を弁護人作成写真撮影報告書にまとめる作業をはじめた(08年03月22日、日曜日、午後2時49分)。


macchamati01.jpg

posted by justice_justice at 14:49 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年02月27日

■「宗教」と「科学」−ダン・ブラウンの小説


DanBrown_Angels&Demons00.jpg
■電車の帰り道、JR摂津本山から明石駅まで、疲れを感じるときに、おりおりDAN BROWNのAANGELS & DEMON”を読み読み、途中で寝入ったりしながら、すごすうちに、先日、読み終えた。ポケットブック700頁を超えるいわば大作なのだが、今時の小説は、「劇場型」というよりも「アクション映画型に構成されているから、場面展開も人の動きもストリーの流れも、いえば「読む映画」になっている。
 ブラウンのベストセラー”DA VINCI CODE”と同じく、世界史の謎ーカソリックと科学の対立という思いもつかぬ物事のみかたを軸にして、バチカン市を舞台に話は展開する。
 宗教の衰えを感じるバチカンの若き司教が、"ILLUMINATI"と呼ばれる科学者の秘密組織による破壊工作を装い、スイス、ベルンにある"CERN"の科学者であり司祭であるLeonard Vetraが発見した「無」から「有」の誕生する秘密ー「神が無から宇宙を作ったことを科学的に証明する発見」を知り、それ自体を背信的と受けとめ、謀略を巡らせる。「反物質」の爆破作

DanBrown_Angels&Demons01.jpg
用を利用して、バチカン市にこれを時限爆弾として仕掛ける。ローマ法王を毒殺し、新法王選挙手続を開かせ集まった司教のうち有力な4名を誘拐して雇い入れた暗殺者に委ねる、、それも"Illuminati"の隠された秘法に従い、秘密の場所で殺害し、これをマスコミにリーク、バチカンを大混乱に陥れる、、そんなストーリーだ。これを暴くのが主人公であるハーバード大学美術史、シンボル学専攻のロバート・ラングドン。そして、反物質を共同開発した殺された科学者の娘。
 バチカン市とローマ市を縦横に走り回って、若き司祭の野望を砕く活躍と活劇、、、
■ 「宗教」。科学が人を救えない時代、むしろ、人を孤立化させ、分断し、不安と恐怖、破壊と死をもたらすテクニックである時代。人々は、宗教に癒しを求める傾向が強い。
 大学のキャンパスにも、「宗教」の影響が色濃い。フロントサークルがいろいろあると聞くこともある。
 「不安の時代」のアクション小説かな、、、と思いつつ、無我夢中になってラストパートを一気に読み終えた。

DanBrown_Angels&Demons02.jpg
■例のごとく、日本語訳の有無などもふくめた作品の蘊蓄を語る基本知識はない。
 ただ、電車の帰り30分にちょうどよい小説ではあった。
posted by justice_justice at 15:07 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年02月16日

■「日本」を考えるー司法改革の意味


080216_pocketbook.jpg
■昨週、2冊の短めの新書を読んだ。
 川端康成『美しい日本の私』講談社現代新書
 尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書
■ 川端本は、ノーベル文学賞受賞後の講演をまとめたものだ。その中の一節にこうある(10頁)。
 「そのボッティチェリの研究が世界に知られ、古今東西の美術に博識の矢代幸雄博士も『日本美術の特質』の一つを『雪月花の時、最も友を思ふ。』という詩語に約められるとしてゐます。雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折々の美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあふ幸ひを得た時には、親しい友が切に思はれ、このよろこびを共にしたいと願ふ、つまり、美の感動が人なつかしく思ひやりを強く誘い出すのです。この『友』は、広く『人間』ともとれませう。また『雪、月、花』といふ四季の移りの折り折りの美を現はす言葉は、日本においては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を現はす言葉とするのが伝統なのであります。」
■ 尾藤本は、日本文化の通史を通して、日本的価値の捉え方、日本人の主体性の捉え方を摘示するものである。その一節を引用する(227頁)。
 「現代の日本について、あるいはその将来への展望について論じられるとき、しばしばその議論の前提として、とかく日本人は「お上」に対して弱いとか、権威に従順であると言われ、そのような傾向が歴史を通じて生み出されてきたかのようにみなされていることが多いように思われる。しかし日本の社会やその生活文化について、ここまで通観してきた全体をふり返ってみると、むしろ逆に、権威に必ずしも従順ではなかったのが、日本人の歴史の特色をなしているのではないかと考えられる。古代国家を完成し、万葉の歌人に賛美された天武天皇は、一種の反逆者であった。平安京の貴族社会が、地方の人々への配慮を怠ると、武士が勃興して、国家の公権力を代行し、その武家政権の打倒をはかった天皇や上皇の行動は、「御謀叛」とよばれた。天皇の伝統的権威よりも、現実に公権力として機能している武家政権の方が、優位にあるとみなされたのである。もともと共同体的な性格をもつ国家において、公権力は一部の人々によって独占されるべき性質のものではなく、その独占に近い状況が生ずると、必ず反撥が生じ、社会組織が変動する。それが日本の歴史なのである。」
■今、市民が裁判員となって刑事事件について、有罪無罪を判断し、量刑を決める制度について、考えている。学者なので、「運用のよしあし」は実務家に任せて、これが「日本のかたち」にどうフィットするのかというやや迂遠な、よく言えば、大局的法史的視点から、みておきたいと考えている。それには、単に、法制度としての妥当性をみるのではなく、結局、日本史と日本の価値観の歴史に置き換えてこれを捉えることとなる。
■市民が自ら裁判をする、自治の精神。今、「市民主義」と仮称している法の新たな在り方が、日本人の美意識と「公け」の捉え方に無理なくマッチするものなのか、気がかりなまま、現場の動きをみている。
 武士=もっとも有能な合理主義者であり技術者が江戸を支え東京を支えた、明治維新。それは、いわばプロフェッショナリズムの時代であった。
 それを思い切って「市民主義」に置き換えることとなる。
 できそこないの「平成維新」に終わるのか、第二の「明治維新」になるのか、よく見定めなければなるまい。
*写真は愛知県弁護士会HPから引用http://www.aiben.jp/page/library/kaihou/1710kan03.html

aichi_mocktrial.jpg


posted by justice_justice at 08:01 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

■「南大門」炎上ー李氏朝鮮を学ぶ宝


seoul_ct00.jpg

■「馬鹿な!」と叫んだ日本人は大勢いたのではないか。
 「南大門、炎上」。
 衝撃が走った。ニュースで燃え落ちる門の様子をみて、身が切られる思いが走った。
 韓国、ソウルの大切な記念碑。李氏朝鮮から連綿と続く韓国の歴史を物語り、しかもソウルの中心にあって、現代ともマッチした景観を作っていた南大門。
 2004年、2005年と韓国調査旅行のとき、ジョギングといえば、南大門と東大門、どちらかの周辺を巡ると決めていたものだが、、、、。

nandemun01.jpg
■韓国の刑事手続は、歴史的には我が国が植民地時代に残したものを継受しつつ、当然ながら、独自の発展を遂げて今日に至っている。端草にあるソウル地裁、高裁には滞在中足げく通って、法廷傍聴をした。
 韓国語がわからないまま、独自の職権主義的法廷の模様をじっと観察してみた。
 我が国のビジネスライクな法廷と異なり、ソウル地裁の法廷は、その重厚な作りにおいても、また、国旗をバックに配置した模様においても、法廷らしさを強く感じさせるものであった。

nandemun00.bmp
 教保文庫で読めない韓国語を無理に読んで、少しだけ残る漢字表記を頼りに、韓国刑法、刑訴法、捜査などの文献を買い込んだのも、04年、05年の調査のときであった。
 ソウルに着いてホテルにチェックインして、すぐに散策にでたのはいいが、すぐに道に迷い、夜になって道にさまよってさてどうしようかと思いつつ、とりあえず、お腹が空いたので食べた最初の韓国料理が屋台の「トッポッキ」であった。
 英語も日本語も話さない屋台のおばちゃんに、手ぶりで、「これ1皿もらえる?」「どう、かなり辛いのかな?」「でもまあいいや、一皿ね」と双方困り顔をしながらも、意思疎通をして、食べたものだが、爾来、韓国といえば、トッポッキと決めている。
 次回訪れるときも、真っ先に行くのは、南大門と、その横に広がる市場。そして、韓国海苔巻き、キムチのうまい屋台、そこで食べるトッポッキと、決めていたのだが、その南大門が焼失してしまった。
 新聞記事によると、不動産取引に失敗した者の放火であるとか、、、
■「李氏朝鮮」。儒教が作る文化と歴史。チャングムの連続ドラマをみたことも、韓国への関心を強くした理由。書棚には、専門書から通史まで韓国の歴史と文化に関する書籍がひとわたり揃っている。

krean_food00.jpg
 21世紀の我が国のあり方を考えるとき、韓国の存在は重大な意味を持つ。
 折々我が国の選択をタイムラグを置いて韓国がフォローすることもある。いわばフラッシュバックを観る、と言ってもいい。それは、これからの日本を元押すときに、かえって役立つ。韓国は、どう歩むのかが、同じ制度をもつ我が国のこれからをどう改革すべきか考える材料を提供する。
 「韓日」。
 その発展的で友好的な関係の構築がぜひ必要だと思う。
 そんな思いのがあるだけに、今回の事件は、ことのほか胸に響いた。誠に残念に思う。
 そして、ぜひその再建を望みたい。
 
posted by justice_justice at 23:32 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2007年12月01日

■京都旅情ー事件調査の旅

♪♪♪
まる たけ えびす に おし おいけ
あね さん ろっかく たこ にしき
し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう・・・

kyoto071201_00.jpg
■12月初日の京都、松原通り。
 京都の職人が多く集まる街であったはず。その名残は、通りのそこここにある。
 もう35年も前になろうか、東京から京都に下宿をはじめた頃、教養部の暇な(?)時間を京都散策によく費やした。そのときに、通りと小路の名を覚えるのに習ったのが、「通り名詩」(というのかさえ正確ではないが、このブログはうんちくを傾ける場ではないので、、、)。
 この詩は、「新撰組血風録」、栗塚旭がはじめて土方歳三役を演じ、島田順司が沖田総司を務めたときの、どの篇であったか、沖田が主人公の編で、子供に教えてもらう場面か、子供が遊ぶところを通るときにか、この詩がBGMに使われていた(と思う)。
 まだ中学生の頃、しかも札幌にいた頃にみたテレビドラマだが、そのとき、将来は京都に住む、と決意したのを思い出す。
■松原通り、思い出が続く。
 鴨川を東山から、当時下宿していた中京の堺町通り押小路東入ル、へ向かうのに、わざとここを渡った。「松原橋」。実は、本来の五条大橋はここにあった(と記憶しているのだが、、、)。
 また、これを東山通りに向かうと、「六道の辻」がある。小野の篁を祭る六道珍皇寺と言ったか、、、この近くに地獄と人間界を行き来した小野の篁がその出入りにした、冥界への道があるとか、、、
 だから、「六道の辻」という。
■そんな由来を頭にたたき込みながら、この辺りを自転車で散策したときから35年、、、
 その同じ道を、今日は、さる事件の調査のために、実況見分調書添付の図面を左手に、デジカメを右手に、コートのポケット右に、ICレコーダーを、左に予備のデジカメを入れて、そこここと歩き回る、、、

kyoto071201_02.jpg
 歩き疲れて、買っておいたあんパンをほおばったのは、これも京都ではよく知られている因幡薬師。
 正式には、京都市下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728所在の、真言宗智山派平等寺。
 六角堂と並び、東洞院通りを四条を挟んで、対になるようにしてたたずむ街中の寺院。観音さんがご本尊のはず、、、みなうろ覚えの記憶なので、、、
 そうした歴史と由緒のある街の一角で、「犯罪」が起きている(但し、我々弁護人の調査では、実行行為性にも故意性にも疑問があり、無罪主張である)。
 四条に戻り、御旅所の守り神に一礼して、阪急電車に乗って事務所に戻った。
 青春の思い出と、刑事弁護の厳しさが混じった、調査活動であった。

kyoto071201_03.jpg


posted by justice_justice at 14:26 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2007年11月21日

■水都「大阪」−法律事務所の近くにて


osaka_water00.jpg
■「閑話休題」。
 殺伐とした話題が続く本ブログにおりおりソフトなテーマも取り入れたいと思う。
 客員弁護士として所属する大阪パブリック法律事務所は、11月の初めから、元大阪弁護士会別館の2階に移った。
 過日、徒歩で近くの法律事務所にでかける用事があった。川を渡ろうとしてふと水面をみると、夕暮れにさしかかるオレンジの光線がビルの谷間と川面に映える。一瞬たちどまって、また、仕事に戻る。
 すこしだけ安らぎが心に残る。
 と言えば、大阪は、水都であるはず、と思い出す。写真のような光景が、その名の由来なのかと思う。
posted by justice_justice at 08:46 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

■「キリスト」もの犯罪小説ーベルン便り


bern01.jpg
 一冊のポケットブックを読んだ。
 Kathy REICHS "Cross Bones"(2005)
2つ思い入れがある。
(1)キリストに関わると思われる骨が、イスラエルの古跡から見つかる。その奪い合いを巡る殺人事件の発生。これが一つめ。
 日本文化にはなじみにくいキリスト教への深い思いを背景にしてはじめて理解が可能な犯罪小説。
 ちょうど、Davinch Code がそうであるように、キリスト教の原点ーイエスキリストは神であること、マリアは処女であること、キリストは十字架に掛けられたが復活すること。キリストの血統はありえないこと、、、
 そのキリストの骨と疑われる発掘品を手にした骨董品商人がモントリオールで殺される。
 主人公は、女性法医学者、しかも、骨の専門家であるテンペランス・ブレナン博士。カナダ警察のベテラン刑事を恋人にもつ中年、独身女性(離婚歴あり)。
 彼女が、謎の繙きにを始める。
 結末は、あっけない。途中では、キリスト教文明を破壊するための原理主義者が介在するのではないかとか、バチカンが動いたのではないかといった推測を主人公等はするのだが、すべて空回りにおわる。イスラエルがユダヤ教を守るためにキリスト関係の遺跡を集めて破壊しているのではないか、そんな筋書きもちょっとかいま見える。
 だが、結局、ごくありがちな殺人劇であった。
 骨董商が雇った女性店員と不倫関係になるが、結婚を迫られた骨董商が店員を追い出す、それに怒った復讐劇。ただ、イスラエルの遺蹟庁の長官(と思う)がちょっと筋に絡んで、一財産造るために、キリストの骨を奪おうとして、この女性に殺される。
 壮大なスケールで始まったのに、尻切れトンボの観が強いが、やむをえない。
 ともあれ、面白かった。

cros-bones.jpg
(2)二つめの思い入れ。
 この本は、実は、06年3月にスイス、ベルンで買った。ベルン中央駅の東側にある商店街のあるビルに入る大きな書店。
むろん、基本はドイツ語。小説のコーナーで何気なく見つけたのがこの本だ。
497頁の厚い本を買ってホテルに持ち帰った。本には、店の値札を付けたままにしている。
旅にでたとき、数冊の文庫本を買い込む。次に外国に出るまでに読む、そんな読書サイクルをはじめて数年になる。
 家並みの揃った旧市街の美しさとともに、やや殺伐な内容の小説に忘れがたい思いが宿る。
また、アーレ川に囲まれた旧市街を電車でちょっと南にでると、そこにベルン歴史博物館がある。
 中世のヨーロッパを語る遺蹟の数々。その中に、法律のシンボル、テミス神の像もある。姿形は異なるが「正義」を貫く姿勢と天秤は国を超えて共通する。
 もともとベルンには、司法制度の調査に出向いた。そんなこともあってか、犯罪、裁判ものの本を趣味的に買う。
 この本もそんな一冊だ。
 作者と作品の有名度は知らない。
 カナダ英語の独特の言い回しにも辟易したが、ストーリーを読み切れない英語で読み切ったおもしろみが残っている。
 またベルンのあの本屋で次の小説を買い込みたいものだ。

bern00.jpg

posted by justice_justice at 00:58 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2007年09月28日

■21世紀を読むー国家と個人


Law&Soc00.jpg
■Eric A. Posner"Law and Social Norms"(2000,Havard University Press)ーポスナー『法と社会規範』を読んだ。法と経済学の分野では世界的に有名な学者なのだと思う、、、実は、よく知らない。幸い、専門が違う。どうせ大学へ通う電車の中でときどきあんパンをかじりながら読んだ、趣味の世界の本だ。うんちくは要るまい。
 それより、本を読みながら、あれこれひらめきを感じていた。本の内容にマッチしているかどうかも関係ない。
■「21世紀に入り、国家が個人を守れなくなったのではないか」。
 これが、この種の本をなんとなくひもとく基本的な疑問点だ。
 本来国家の正当性は、個人を守ること、私的紛争による個人の生存の危機を防ぎ、秩序と安全を約束することにあるはず。だが、それができなくなっている、、、
 その現象をどうみたらいいのか。
■個人を守るのには、より身近な地域社会のこぶりな動きがあったほうがいい。しかし、国家の存在は、ミニ共同体の社会規範をのけ者にする。
 国家レベルでの「法律による制御」が個人を支配する。
 経済を支えるのも、国家レベルでの「マーケット」であって、地域社会に根ざす共同体ではない。
 福祉と一体となった社会規範にくるまれた個人ではなく、抽象化された個人が、利益を追求する市場の中で活動する姿、、、
 国家秩序の枠組みの中で、プライバシーと法の支配に守られた個人。
 一見すると、自由度が高く、解放性が広いようにみえた、、、20世紀までは、、、。
■ しかし、今や、「国家の守る個人」像は幻想になった。国家のまもるマーケットはグローバル化=肥大化しすぎている。巨大な動きの影で、押しつぶされる個人が無数に生まれ始めている。
 国家の法律が、社会の規範を押しつぶす中で、個人の生存と福祉、安全と健康が脅かされている。
■「もし、法律の興隆が共同体の没落を意味し、法律が、社会的規制の機能不全状態に置き換わったのであったとすれば、共同体の没落は好ましい傾向とみていいはずだ」とポスナーは摘示する。
 しかし、違う。
 「マーケット」と「法律」
 これが共同体の衰退をもたらした。そして、「共同体の衰退は、今や悔やむべきことと看做されており、これを阻むべきものと受けとめられている」
■ 「法律による規制」に対する「共同体による統制」。その復権、復活が、必要なのではないか、、、、
 、、、という勝手な感想をもって本を読み終えた。少し時間がかかったが、読み応えのある本であった。

posted by justice_justice at 22:36 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2007年09月25日

■『ダヴィンチ・コード』読書録ー宗教と「こころ」


DavinciCode_book.jpg
■『ダヴィンチ・コード』。ポケットブック576頁を読んだ。
 映画並みの事件展開のテンポの軽さを読みながら感じさせる。しかも、各イベント毎に、歴史と宗教の絡む根深い問題をさりげなく提起するー「女性蔑視」思想の淵源、男優位の価値序列が作られた過程をラングドン教授が語る。
 魔女狩りの真の意味ー血統を捜し、消滅させる教会挙げての圧政。
 テンプル騎士団の本当の意味ーその弾圧の理由。血統を守る者と抹殺する者との戦い。
 ルーブルで始まり、ルーブルで終わる、キリスト教聖杯伝説。
 ルーブルの中庭、入口にもなっている『ピラミッド』、そこに隠されたキリスト教2000年の秘密。
 そして、聖杯の本当の意味ーブラッドライン=血統を継ぐ者達とこれを守るもの達の存在。
 この秘密を糧に権力と冨を得ようとする者との戦い、権威を守る教会の蔭、、、、

DavinciCode02.jpg
■なるほど、おもしろいミステリーであるし、なによりもイギリス、フランスの旅行ガイドも兼ねている。行った場所、行きたい場所を思い浮かべながら見ることのできる本、、、
 2001年に訪れたルーブルの写真を繙き、今年3月にロンドン訪問のときお土産に買ったテンプラー騎士団の人形をしげしげと見守りつつ、本を読み終えた。
■ 『最後の晩餐』に描かれた、ほんものの聖杯ーマリー・マグダーレン。

last-supper05.jpg
 イエスキリストの血をこの世に伝える血統の存在。
 西洋的であるものーキリスト的であること、このすこぶる理解しがたい文化をミステリーで語っているから、おもしろいのだろうか。
 仏陀に子どもがいて、その血脈が実は今も続いている、と言われたら、どうなるのだろうか、とつい考える。
 「それはよかった、ありがたいことだ、南無妙法蓮華経」で終わるのだろうか。
 それとも、bloodlineの正統性を巡る血の戦いでも始まるのだろうか。
 キリスト教の原点ーイエスは神でなければならない。これと世俗の父親であることは、それほど矛盾するのだろうか。

DavinciCode00.jpg
■ 『モナリザの微笑』。
 物語では、ここに聖杯の隠し場所への道筋が隠されていた。同時に、絵の主人公がマリ−マグダレンその人であるとか、、、
 ルーブルを訪れて、この絵をはじめてみたときの写真を、本を読みながら、モニターにアップした。
 次回ルーブルに行ったときには、別な見方ができるだろう。
 むろん、来年3月にロンドンに行くとき、テンプル教会をまっさきに訪問し、また、ウエストミンスター教会でニュートンの墓を見ることとなるだろう。
posted by justice_justice at 20:24| ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2007年09月07日

■シドニー、ロックとある小説ー"Women on the Rocks"


rock01.jpg
■ もう3年も前になる。"Dymocks"でオーストラリア特有の小説を店員に紹介してもらって買い込んだのは。
 その1冊が、"Women on the Rocks"。
 イギリスの田舎町でジェントリーの家に使われていたメイドが、えん罪で有罪判決を受けるー"Old Baily"−現在の刑事中央裁判所で、コロニー追放を宣告される。江戸時代でいう、島流しだ。
 そして、シドニーに来る。そこから、小説がさらに展開していく。町の有力者であるパン工場主との婚姻、自らの子を持つことを嫌うため妊娠とともにまた刑務所に送り返される主人公ーMary Jones。
 裁縫業での独り立ち、娘のやくざな貴族との結婚、その意外な結末、ニュジーランドに移住した英国以来の友人との文通とシドニー、ロックでの再開、、、
 えん罪で島流しになった一女性の一生をロックを背景に描く小説。

rock00.jpg
 この小説が日本で有名なのかどうか、作家ーKristin Williamsonが著名なのかどうか、、、例のごとく、趣味にうんちくを傾けることのない筆者にはわからない。
 ただ、この小説はおもしろい。19世紀中頃、ロマン主義華やかりし時代が植民地シドニーにどう反映していくのか、そんな時代を背景に、未知の大陸でたくましく活きる一女性の姿、、、。
 実は、2004年11月のオーストラリア調査の際に買い求め、帰りの飛行機で繙いたはずなのに、今日、読み上げることとなった。
 三年越しの読書。シドニーもぜひ再訪したい街だ。

posted by justice_justice at 23:35 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする

2007年08月22日

■"The Lincoln Lawyer" by M.Connelly-刑事弁護の本質


LincolnLawyer00.jpg
■ヒースロー空港で今年3月に買った小説をようやく読み終えた。仕事上、小説といえば、どうしても犯罪・裁判・捜査・弁護ものになる。これもその一冊である。ただし、「趣味」で読む小説なので、それ自体がおもしろければよく、この小説と作者がどれほどアメリ・日本・世界で有名か無名かは、知らない。「趣味」に蘊蓄はいらない。
 ともあれ、おもしろかったー「答弁取引」ばかりで稼ぐ刑事弁護専門弁護士が、不動産財閥の跡取り息子の売春婦殺人未遂の弁護を引き受ける。
 実は、前に彼が仮釈放可能な無期懲役で手を打つようにすすめた依頼人の事件ー殺人事件の真犯人であることが、調査の過程でわかる。
 しかも、巧妙な犯人は、自分の陪審法廷がはじまる直前に、主人公弁護士に、「両方の事件とも真犯人は自分だ」と打ち明ける。守秘義務で縛りをかけるためだ。ー弁護士の真実義務か倫理遵守かを選択させることで、弁護士を自分の味方に引きつけておこうとする。
 殺人未遂法廷は、若手検事の勇み足で有罪立証が破綻する。反対尋問のみごとな技法が、そこここにちりばめられている。
■ 最後の結末は、案外あっけない。息子を庇うために大金持ちの母親自らも殺人を繰り返しており、主人公も「息子を私から奪えない」と脅す母親の銃弾に倒れるが、からくも正当防衛で射殺に成功。息子も、警察が監視下においていて、主人公はえさに使われただけ、、、
■ 「法廷」で真相を解明する。この不思議な舞台装置。しかも今までは、ここで捜査段階で警察などが集めた書類を裁判所に引き渡し、裁判官は裁判官室でじっくりと資料をよんで、いわば推理小説をみずから解決する感覚で「犯人、みつけたり!」とやっている。
 だから、証拠から事実を推認する、という基本構造はあるが、実のところ、「資料をもとにレポートを上手にまとめる」というのに近い作業が、「刑事裁判」として行われきた。
 概ねこれで健全に司法は機能する。しかし、その中に、小説の主人公も見逃したように、えん罪・無辜・無実が交じる。そのときにも、裁判官は有罪資料で有罪を「説明」する。この作業と、証拠の重みから事実を推認すること、証拠の重みが示すなまの人間を読み取ること、、、刑事裁判にとってもっとも大事な作業とを混同する。そして、人間をみれなくなる。
 日本の裁判官は、書類で人と社会を裁く。「調書裁判」の弊害に陥る。
■ 他方、リンカーン数台に記録を積んで走り回る小説の主人公ーミッキー・ハラーも、陪審裁判の特殊性を熟知した法廷戦略・法廷技術を駆使して、クライアントを刑事裁判から解放する。証拠の重みとともに、法廷パフォーマンスが重視される。証拠収集や法廷技法のささいなあやまりで、事実を裁く証拠の重みをくつがえす。「ゲーム裁判」となる。
■ 有罪の作文に向いている「調書裁判」か、ゲーム感覚の「公判中心主義」か、、、。
 一長一短なのかもしれない。裁判員裁判はどうなるものやら、、、

posted by justice_justice at 08:12 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。