2010年08月06日

■奥深山事件と手続打切りー刑事裁判の第3の道

*本日のブログ関連写真
http://justice.netspace110.jp/blog/blog_100806.html


■奥深山幸男さん。
 1972年の渋谷暴動の最中に起きた、警察官死亡事件。デモ隊と対峙する機動隊の一員が逃げ遅れて、デモ隊の暴行にあい、火炎瓶を投下されて火傷をおい、翌日死亡する。
 学生運動が社会を揺るがした時代の不幸なできごとだ。
 その事件のすぐそばに、高崎経済大の学生等を率いた奥深山氏がいたことは間違いない。
 警察・検察は、デモに参加した者等の供述を重ねていき、奥深山氏等を首謀者、実行行為者とする供述を固めて起訴し、一審では、無期懲役を求刑。しかし、一審は15年の懲役とした。1979年のことだ。
 検察、弁護とも双方控訴。
 この前後から、同氏の精神状態に異変が起きる。当時精神分裂症と言われ、いま、統合失調症と言われる精神疾患。
事件。
■「訴訟能力」
 これが、我が国刑事裁判のネックになる。
 奥深山氏は、精神疾患のため、「被告人として刑事裁判に主体的に関与する知的能力」を失う。
 かくして、1981年7月15日、東京高等裁判所は公判手続の停止を決定した。
 ここで、訴訟能力の意義が問題となる。
 おおまかに言えば、刑訴法の基本構造の理解の違いに応じて、二つの理論モデルがある。
 当事者主義的訴訟能力論と職権主義的訴訟能力論。
 当事者主義とは、刑事裁判の真相解明における被疑者・被告人と弁護人の主体的関与を重視し、その判断と処分を軸にして、証拠調べを実施する。
 したがって、被告人の「訴訟能力」にとってもっとも大切なのは、弁護人の助言を理解し、相談をして、自ら判断、選択、決断をする知的能力である。
 他方、職権主義は、裁判所の責任と権限で、真相解明に必要な証拠調べを実施する。被告人が法廷で事象を説明する場合も、直接主義=裁判所みずから被告人に問い質して、その説明が信用できるかどうか、よく問い質す。
 その場合、被告人に必要なのは、職権主義的「訴訟能力」だ。
 被告人には、裁判所の訴訟指揮を消極的に理解できる程度の能力があればよい。後は、裁判所の後見機能によって、正しい裁判を行う。弁護人は、被告人の理解を助ける補助的な役割を果たせば足りる。
■今、何人かの精神医の「訴訟能力」に関する鑑定を経て、東京高裁は、訴訟再開に向けて準備をしている。その根底に潜むのが、職権主義的訴訟能力論だ。これを支持する精神科医が、精神医学を勝手に踏み越えて、独自の法的な解釈論を施して、訴訟能力を認める意見をまとめている。
 そんな状況に疑問を抱いて、弁護団の協力と支援者の理解を得て、今日、奥深山幸男さん本人と面談をした。
 結論を言えば、一応会話は成り立つ。一定の深みと相互理解を踏まえた、会話ができる。しかし、「刑事裁判における被告人たる立場」を理解し、「防御権の主体」として弁護人と意味のある意見交換、情報交換、分析と総合、選択と決断、、、、法的な意味のある防御方針の決定を弁護人と相談して行なうレベルにあるとは到底思えなかった。
 当事者主義的訴訟能力の欠如、、、、。
 さらに慎重に検討してみたい。
■ところで、日本の司法は、真相解明をことのほか重視する。適正手続自体の価値を軽視する。被告人の訴訟能力についてもそうだ。裁判所の職権で適切に裁判が処理できれば翌、おおまかにこれを被告人が受け入れる力があればたる。お上が決める、これだ。
 その枠組みを変えることができるかどうか、、、
 21世紀の新しい時代にふさわしい第三の道ー手続打切りを実現できるかどうか、これがこの事件の争点となる。

 さて。
 はじめて、上越新幹線に乗り、はじめて熊谷まで出向いたのだが、弁護団との打合せ、奥深山さんとの病院での面談、再度の打合せ、、、ビジネスだけの往復であった。熊谷あんパンを食べながら、東京に戻った。



<参考ー奥深山事件関連ホームページ>
http://fhoshino.u.cnet-ta.ne.jp/pages/okumiyama.htm
http://www.zenshin.org/cgi-bin07/mt4i.cgi?mode=individual&eid=3729
http://hyogo-hoshiokyuuen.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-57d9.html
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2010年07月03日

■障害者郵便割引不正事件ー検察司法の破綻

■いわゆる障害者郵便割引不正事件で、被告側の最終弁論が行なわれたと報道されている。2010年(平成22年)7月3日発の「47NEWS > 共同ニュース」から拾うと骨子として、まず次のように主張している。
*************
【検察官主張の不合理性】
 検察官は冒頭陳述で、国会議員の要請を受けた障害保健福祉部長が「円滑に法案を成立させるため、有力議員の機嫌を損なうことなく依頼を処理する配慮が必要だと考えた」と主張し、部長から指示を受けた村木被告には「凛の会」の実体がいかなるものでも証明書を発行することが決まっている「議員案件」だという動機があると主張した。このような一般的な要請は犯罪の動機としてあまりに薄弱だ。
 検察官は、組織ぐるみの共謀が成立していたと主張するが、民主党の石井一参院議員から要請を直接受けていない村木被告が、上司に相談もせずに逸脱し、部下を巻き込んで違法行為に踏み切ったとする筋書きはあまりに不自然。村木被告が最低限の資料提出すら求めず、決裁を省略して、犯罪行為である証明書の偽造を指示しなければならない理由はない。
***************
■実際のところ、新聞報道しかみていないので、証拠そのものから推認できる事実がどうなるのか推測するしかないが、ざっくりと、事件を眺めれば、被告側主張の通りだと観ずる。
 「ストーリー犯罪」。
 これができあがるところに、我が国検察司法の怖さがある。
 それを支えるのが「調書裁判」だ。
 この事件について、節々でコメントを掲載してもらっている。

■検察官論告については、次のように感想を述べた。
(1)「障害者郵便割引不正:村木被告公判/証拠欠く苦しい検察/傍聴席、失笑も」毎日新聞(朝刊)2010年6月23日
 今回の論告について、渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)は「絵に描いた餅で、論告の役割を果たせていない」と話す。渡辺教授は「冒頭陳述と論告を比べると、証拠採用されずに多くの供述調書が欠落したことが分かる。密室の取り調べが中心で、調書だけで事件を作ろうとした検察捜査の失敗がよく表れている」と話した。【日野行介、苅
(2)「厚労省元局長に求刑/識者/しっかりした証拠に基づくものと思えず【郵便法違反事件】」NHKニュース2010年6月22日
 検察の求刑について、甲南大学法科大学院の渡辺修(ワタナベオサム)教授は、「村木元局長と部下の上村元係長との間の出来事がまったく立証されていない。検察の主張はうその証明書ができたから村木元局長が関与しているはずだというストーリーに過ぎない。捜査と起訴を行う大きな権限を持つ検察は、市民が見ても納得できる証拠で立証する責任があるが、今回の求刑はしっかりした証拠に基づくものとは思えない」と述べました。

■検察官請求の「供述調書」=検察官作成供述調書の証拠不採用決定について
 「元局長「関与」調書、大半却下/検察立証の柱失う/郵便不正公判」(朝日新聞2010年5月27日(朝刊)。
 記事は、次のように証拠不採用を簡潔に紹介している。
「郵便割引制度を悪用した偽の証明書発行事件をめぐり、虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた厚生労働省元局長の村木厚子被告(54)の第20回公判が26日、大阪地裁であった。横田信之裁判長は、捜査段階で元局長の事件への関与を認めたとされる元部下らの供述調書計43通のうち34通について、「検事の誘導で作られた」などの理由で証拠として採用しないことを決めた。有罪立証の柱の大部分が失われたことになり、検察側は極めて厳しい状況に追い込まれた」。
 これに関しては、次のようなコメントを掲載してもらった。

●「無罪の公算大に」識者 刑事裁判に詳しい甲南大法科大学院の渡辺修教授(刑事訴訟法)も「無罪の公算が大きくなった」と指摘する。村木元局長の公判では、元担当係長らが捜査段階の供述調書の内容を一転させ、元局長と事件とのかかわりを否定。渡辺教授は「裁判員裁判時代を迎え裁判所が公判でのやりとりをより重視し、供述調書の証拠採用に慎重な態度を強めていることの表れだ。そうした変化を読み取れず、旧態依然とした密室での取り調べを続ける検察側の姿勢に裁判所が拒否反応を示したものと言える」と話している。
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2010年05月25日

■裁判員法施行1年ー様々な争点、論点、疑問点(3)

 大阪読売新聞10年5月21日(朝刊)は、「裁判員裁判1年/「市民感覚」/3件とも反映=高知」との特集記事で、高知県内の裁判員裁判を再度紹介。
 こんな記事の中で、コメントも再録してもらった。

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■市民感覚
 県内第1号の裁判員裁判は今年1月。強制わいせつ致傷罪に問われ、懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡された男性被告(34)には、保護観察中に「断酒」するという条件が加えられた。
 酒所・高知では厳しい内容ともいえ、渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)は「断酒の条件は裁判員らが考えた生き生きとした意見。市民感覚が盛り込まれた」と判決を評価する。
 判決後、裁判員を務めた男性が「裁判所が配慮をしてくれ、堂々と意見が言えた。これから参加する方は安心して頑張ってほしい」と力強く述べたのが印象的だった。

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2010年04月30日

■付審判請求ー市民参加のもうひとつの「かたち」

■「付審判請求」−市民参加のもうひとつの「かたち」
 朝日新聞2010年4月16日は、「地裁「発砲、合理性ない」/奈良2警官「付審判」決定」と題する記事を掲載した。
 概略としてこんな経過だ。
 「奈良県大和郡山市で2003年、窃盗容疑で追跡中の車に警察官が計8発を発射し、助手席のTさん(当時28)が死亡した事件。巡査長ら2人を特別公務員暴行陵虐致死と同致傷の罪でそれぞれ審判に付すとした奈良地裁(一谷〈いちたに〉好文裁判長)の決定は、警察官の拳銃使用について慎重な対応を求める判断を示した」。
 運転席の犯人に対する付審判請求については棄却されている。この結果、2名の若手警察官がいったん被告人の立場に立たされることとなる。付審判の決定は、公訴の提起と同じ効力をもつ。その当否は、裁判の中で判断することとなるから、この決定自体に対する不服申立はない。他方、付審判請求を棄却した場合には、抗告によって不服を申し立てることができる。
 さて、この後、指定弁護士が指名され、検察官役を担当する。付審判手続の場合には、指定弁護士には独自の捜査権はなく、検察官に要請して捜査を肩代わりさせることとなる。
 ところで、記事の中にこんなことが書かれている。
 「一谷裁判長は、計8発の発砲のうち、東巡査長と萩原巡査部長が助手席側の至近距離から発射してTさんの首に当たった2発について、助手席のTさんまで危害を加えるべきではないのに、命中することを認識しつつ撃ったと指摘。「車両後部の窓ガラス越しに運転席の男の腕や肩を狙うこともできた」などとし、違法と判断した」。
 窃盗容疑で追跡されたこの車が相当のスピードで逃げ回った末、いったん停止しさらに逃走を継続する気配のとき、市民社会は、警察にいかなる選択を期待するのか。
 周囲の市民への安全よりも、逃げ回る犯人を大事に扱うことを期待するのか。
 また、停止方法として、パトカーで体当たりをすることを期待するのか。大型車両で通路をブロックして自然に停まるのをまつのか、、、
 今、「市民と警察」の出会いの場面が荒れている。モラリティーの急速な低下は、「治安維持を市民の責任で!」という意識も薄めている。警察官に声をかけられることだけでも、「権力の不当な介入」と思い込む向きもある。職質を回避しようと、警察官に半減期するなどの事件事故も少なくない。今回の事件も、車両で逃げれば逃げられるという思いが表れている。市民社会を守るためのぎりぎりの選択を警察官がしているのであれば、やむをえない有形力の行使だ。
 残念ながら、死亡者がでている以上、一度、裁判にして、裁判員=市民の目で、なにを期待したいのか、明確にするのがよかろう。「警察官に声をかけられても、平然と逃走する窃盗犯」の選択と、「市民を守り、犯人を検挙し、真相を解明するため、現場にたつ警察官」の選択とどちらを支持するのかが問われている。
 次のようなコメントを掲載したが、趣旨としては、警察官のやむを得ない選択を裁判員裁判で確認し、これを尊重するべきだと伝えるつもりであった。
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朝日新聞2010年04月16日(朝刊)
 ■今回の奈良地裁の付審判決定について、甲南大法科大学院の渡辺修教授(刑事訴訟法)は「警察官が犯罪行為から市民生活をどう守るかというテーマにもかかわる事件であり、裁判員の目で職務の正当性を判断するのが望ましい。市民の良識を重視する時代の流れに沿った判断といえる」と指摘する。
posted by justice_justice at 07:51| ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2010年01月30日

■明石歩道橋事件と検察審査会ー「起訴議決」の意義


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2010年1月27日夕方、神戸第2検察審査会は、我が国初の「起訴議決」を決定した。「市民」の判断が、そのまま「公訴提起」の効力をもつこととなる画期的な決定である。
 我が国の長い法の歴史の中で、国家機関または公的機関であって「検察」機能を持つ組織が、公訴権を独占してきた。それが、21世紀になってくずれた。官僚機構の金属疲労による不正義が市民社会からみて納得のできない処理をもたらす事例が出てきたからだ。
 検察審査会。
 これを設置する検察審査会法は実は昭和23年、1948年にすでに施行されている。半世紀以上の運用の成果がある。11名の市民だけで、検察の公訴権行使のありかたの当否を判断してきた。最高裁の統計によると、平成20年12月31日までで、15万件を処理し、審査後にきそになった件数は、1400件ほど。議決の内容としては、起訴相当・不起訴不当11.3%,不起訴相当55.8%,その他32.9%であったという。実際のところ、これまでも「起訴相当」まで踏み込んだ判断をする事例はさほどなかった。
 その意味でも、基本的には検察庁の公訴権行使は信頼に値するものではある。
 しかし、刑事手続全般について、さらには国政全般について「市民」が主人公となって自覚的自立的判断のもとにあらたな「国のかたち」と「正義」のありかたに責任を負うべき時代になっている。
 検察審査会も衣替えをした。起訴相当と判断した事件は、一度検察庁に戻す。プロがもう一度捜査を補充し、判断をする。また不起訴にしたとき、検察審査会は再度の審議を行なう。このとき、なお起訴相当と判断した場合には、「起訴すべきである」との判断を下す。この起訴議決によって、裁判所は弁護士を指定して検察官役を担わせ、公訴提起をさせるべき責務を負う。検察庁は、指定弁護士の捜査に協力する義務を負う。
 明石歩道橋事件。平成13年7月、市の主催する花火大会の会場に向かう朝霧駅から海岸を架橋する歩道橋に見物客が滞留。転倒事故が発生して、11人が死亡した。しかも子供が犠牲になった。
 明石警察署は、警備計画をおろそかにし、事件当日も歩道橋の滞留を放置した。警察の組織的怠慢を、神戸地検は立件しなかった。
 しかし、検察審査会が見逃さなかった。署長はすでに死亡。しかし、副署長について、実質上4度目で、起訴議決にいたった。
 「市民主義」が公訴権行使の現場を変えた瞬間である。
 この議決について、次のようなコメントを各誌で採用してもらった。

■法律家との違い鮮明にー神戸新聞(朝刊)2010年1月28日
 今までのプロの法律家と違う犯罪のとらえ方を市民が自らの責任で下した決断で評価すべきだ。「起訴相当」の議決後、第2段階の審査で、検察官は従来の過失のとらえ方について説明したと思われるが、市民は雑踏事故での警察組織に対する高度な責任を求め、その不注意を強く指弾した。
 これは、組織を隠れみのに個人の責任を免れることを防ぐ一方で、組織としての責任を個人が持たなくてはならないことを市民社会が宣言したことを意味する。尼崎JR脱線事故で、JR西日本の旧経営陣に責任を問うことも同義といえる。
 ただし、副署長については、署内のモニターで現場を確認し、無線などの報告を通じて事故の危険を容易に予測できたのにしていない。それ自体が市民目線から見れば重大な過失ともいえよう。
 今後、検察官が有罪にできないから不起訴処分とした事件を公開の法廷で、国民監視のもとに裁くことになる。刑事裁判が実現する“正義”の形も従来と変わってくるだろう。もはや公訴提起から裁判まで、司法は市民の良識を無視できなくなった。

■そもそも過失は明白ー毎日新聞(朝刊)2010年1月28日
 今回の起訴議決は、公訴権も検察の「聖域」ではなく、市民の良識が公訴の是非を判断する新しい時代に入ったことを示した。従来の法律家の考え方にとらわれることなく、市民感覚で事件として取り上げるべきだと判断した審査会のメンバーの姿勢は高く評価されるべきだ。
 そもそも元副署長の過失は明白と言える。検察側は現場責任者に権限があったと主張するが、元副署長に監督権限がなくなったわけではなく、指示や命令を出すべきなのにやっていない。現場から報告がなかったおの指摘もあるが、110番は数多く来ており、それを受け、現場の状況をもっと注意深く把握すべきだったと思う。
 私は地検の判断は大半が公正なものだと思うし、公訴権の行使は基本的にプロに委ねるべきだと考える。しかし、最後の歯止めとして、市民の良識が機能するシステムがあるのは意義のあることだ。今回の決定は、裁判員裁判とともに、その良識が健全に働くことを示したものと言える。

■「市民主義の成果」ー日経(朝刊)2010年1月28日
 議決は時効や過失など専門的な論点について市民の良識に基づいて説得力のある論理を積み重ね、起訴すべきだとの結論を導いた。司法における市民主義の成果と言える。検察は最後まで警察が中心となって引き起こした組織的な過失について、市民が納得できるような形で処理できなかった。市民による発の起訴議決が刑事司法全体に与える影響は大きい。
 

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2009年11月11日

●「彼女の正義のために」 by Makiko

英国人女性を殺害後、整形手術で別人になりすまして逃亡を続けていた容疑者が逮捕された。被害者女性の両親は、これまで何度もメディアに登場し、犯人逮捕への協力を呼び掛けていたが、これでほっとされたことだろう。

犯人逮捕の数日前に、イギリスの両親にたいするインタビューのもようがテレビで放映されたが、そこに流れる日本語のテロップに、非常に違和感を持った部分があった。「彼女の正義のために」早く犯人を逮捕してほしいというお母さんの言葉である。これは英語では、当然、”for her justice”であり、日常的によく使われる表現である。日本語の「正義」というような大仰なものではない。

そもそも”justice”という言葉は、「正当なこと、正しいこと」という意味で、多くの訳し方が可能である。「正義」と訳すのがふさわしい場面もあれは、「司法」としなければならない時もある。「公正さ」や「正しさ」など、他にも色々ある。

被害者の親が言った上記のことばは、「罪もないのに殺されてしまった娘の無念を晴らすためには、犯人がそれにふさわしい報いを受けるべきである」という意味のことであったはずだ。このような話をする場合、日本人は何というだろう。「犯人がつかまって処罰を受けなければ、娘も浮かばれません」ではないだろうか。

「彼女の正義のために」と訳したら、まるで、生きている人が、何か正しい行いをしようとがんばっているのを応援しているかのように聞こえる。また、「正義」という日本語は、何かのイデオロギーを振りかざしているかのような響きすらある。娘を殺された母親の言葉として、ふさわしいとは言えない。

「浮かばれない」はあまりに日本的すぎるかもしれない。だが、あのような場面で「正義」という言葉を選択するのは、あまりに安直ではないだろうか。辞書から直訳するという日本人の癖は、いつになったら直るのだろうか。

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2009年04月19日

■死刑囚の告白ー死刑か裁判か

 東京方面で関心を呼んでいるある事件がある。元暴力団組長が、死刑宣告を受けて上告中に、警察へ上申書を出して、別の3件の殺人事件を告白したもの。しかも、絞殺して遺体を焼却したり、生き埋めで殺害したり、保険金目的で無理にアルコールを飲ませて山中に放置した等かなり悪質な態様であった。結局、検察・警察側は、最後の事件のみあらためて捜査して立件した。他方、死刑事件は確定した。
 こうして死刑囚が、さらに別の殺人事件で刑事裁判を受ける被告人の立場に戻ることとなった。
 こんな状態をどうみるべきか。
 そぼくな疑問は、死刑囚なのでさらに刑罰を科す意味はない、なのに何故裁判を行うのか。逆に、あたらしい裁判が終了するまで、死刑は執行できないのか。
 死刑の執行は、法務大臣が、刑の確定日から6月以内に行わなければならないが、再審の請求が行われているときには審理が終了するまでの期間待たなければならない。
 では、別の裁判が進行中のときにはどうなるのか。これ自体が死刑の執行を妨げる事由となるものではない。もっとも、死刑が確定している以上、他の刑罰が確定してももはや執行しない扱いになる。その意味では、死刑確定囚に限り、あらたな裁判、あらたな刑の確定は事実上意味をもたない。
 しかし、真相解明は必要だ。殊に、殺人事件で、3名の被害者がいることが判明し、うち1件が起訴された今回の場合、刑事裁判の範囲で真相を明らかにし、犯罪の悪質性と被告人に対する非難の重みをしっかりと確認しておくべきだ。
 その意味では、法務大臣は、あらたに検察庁が起訴した裁判の確定まで、死刑執行をまってよい。
 そう考えて、次のコメントを出した。
***東京新聞09年4月12日(朝刊)25頁***
 「検察が起訴しているのに、法務大臣の裁量で審理中に執行するのは国家権力の行使として問題。真相究明のためには審理を優先すべきだ」
posted by justice_justice at 09:57| ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2009年04月16日

■奈良調書漏えい事件についてー『プロ』の自覚

 奈良で起きた少年の放火殺人事件に関して、鑑定にあたった医師が裁判所から入手した調書などを開示した事件について、マスコミでは次のようなコメントを出した。
■朝日新聞09年4月16日(朝刊)
 問題の本は供述調書の丸写しで、発達障害に対する社会の理解を深めるような問題提起や解説はなく、出版に協力した医師の秘密漏示に「正当な理由」はないといえる。少年から「殺人者」のレッテルを外したいとの目的があったというが、実際にはフリージャーナリストに情報を垂れ流しただけだった。例えば学術論文の中で訴えたのなら、まだ議論の余地があった。真っ先にすべきは少年や父親らと相談することではなかったか。判決は、故人の秘密を扱う医師や報道機関などに対する重大な警鐘と受けとめるべきだ。
■調書漏えい・有罪判決 法律専門家「モラル守るというプロへの警告」
 NHKニュース・09年4月15日
 判決について、刑事訴訟法に詳しい甲南大学法科大学院の渡辺修(ワタナベオサム)教授は、「守秘義務に違反してプロのモラルを守れなかった処罰としては妥当な判決で、ジャーナリストとして取材源の秘匿を守れなかった作家の態度を非難していることも評価すべきだ。今回の事件で、少年司法に対する信頼が失われてしまった。その意味でプロが自覚してモラルを守らなければいけないという重大な警告として判決を受け止めるべきだ」と話していました。
■手元に『暗い森』という本がある。「酒鬼薔薇」事件を取材した朝日新聞の取材チームの事件記録だ。事件の経緯、少年の周辺、少年審判の判断まで丹念な裏づけ取材をもとに事実を語りつつ、事件を生んだ社会、家庭、少年に焦点をあてていく。相当の取材源があったことを推測させるが、それが明らかになることはない。迫力のある本。ジャーナリズムのあるべき姿を体現した本。
 それと読み比べたとき、『僕はパパを殺すことに決めた』は、底の浅さが目立つ。なによりも、捜査情報の垂れ流し。どこにも取材の重みが感じられない。
 本の帯の内容は、起訴された医師の思いとはほど遠い。

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 こんな本を出版する作家に情報を提供した医師の脇の甘さは、許し難い。守秘義務を犯してまで情報提供をすべき正当な目的を十分に吟味したとは思えない。
 そして、作家と提供した情報を正当に社会に伝える方法を検討し、約束させる厳しさもなかった。
 処罰は当然だ。
■手元にこの本が二冊ある。
 事件が報道された当初さほど注目していなかった。だから、本を注文していなかった。あるマスコミ誌から取材の申込みがあってはじめてことの重大性に気づいた。本屋に注文をした。在庫がないという。あわてた。本を読まずに取材に応じられない。
 ネットで検索した。古本でも高値が付いていた。やむをえない。取材に応ずるからには、本を手元におく責務がある。確か1万2千円で買ったと思う。
 取材にはむろん応じた。
 そして、それから2月後、念のためある本屋に通常通り注文を出しておいたのだが、なんのことはない、系列の支店に在庫があって、注文した2日後には、届いていた。留守電に伝言を残していたという。
 (~_~;)という表情で受け取りにいった。確か1500円くらいではなかったか。

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2009年04月15日

■奈良調書漏えい事件についてー「プロの甘さ」、処罰当然

■奈良で起きた、少年による自宅への放火、家族の殺害事件で、家庭裁判所から鑑定の依頼をうけた医師が、提供された供述調書などの捜査資料や自ら作成した鑑定書などを情報提供したことが、秘密漏えいに問われた事件で、奈良地裁は、懲役4月、執行猶予3年を言い渡した。
 医師の情報開示をどうみるべきか。
 やや取り留めないが、次のように考えている。

(1)医師は少年のプライバシーを無視し、少年審判に対する社会の信頼を傷つけた。
 出版された本は供述調書まる写しであり、発達障害に対する社会の理解を深める問題提起も医師による専門的な解説もない。
 少年の殺意の有無は裁判所が判断すべきことで、少年と父親その弁護士らと相談もせずに法律家でもない医師の勝手な思いこみでジャーナリストに捜査情報を暴露することに公益性はない。
 社会が納得できる「正当な理由」のない秘密の暴露を報道の公益性に役立つ取材協力行為として正当化できない。
 こうした情報漏えいを「国民の知る権利」と「出版の自由」を支える「情報源」として保護する必要はない。
 医師の処罰は、少年司法の理念と少年のプライバシーを守り、「正義」を実現するのに不可欠だ。秘密漏示による処罰は当然だ。

(2)今回の医師の処罰そのものが、我が国の健全な取材・報道を歪めたり、市民や公務員による正当な告発と情報提供に萎縮効果を生むことはない。
 作者が取材源が特定できる形で出版をし、証人尋問でも取材源が医師であることを認めたのは、秘密漏示に加担し教唆し一緒にやったといってよく、医師と同罪である。検察庁は作者について不起訴処分としたが疑問が残る。
 取材源秘匿の権利は、取材・表現の自由を支え、国民の知る権利を実現し、国家権力の横暴から民主主義と自由な市民社会を守る崇高な権利である。取材源秘匿というジャーナリズムのもっとも重い基本倫理に二度も反した作者の態度こそ、市民の信頼をうしない正当な情報提供を萎縮させるものだ。
 こうした憲法の保障する権利は、今回のように職業倫理の基本さえ守れないプロ達を保護するものではない。

(3)念のため、やや専門的に刑法解釈の視点から、繰り返しておく。
 秘密の開示が犯罪にあたらない正当な理由は、開示の目的の正当性、その開示方法の必要性・緊急性、開示の相当性を総合的に判断して決める。その場合、市民と社会の視点からみても、秘密の開示が誠にやむをえないものであり、これを犯罪として処罰することがかえって正義に反するか否かが基準となる。
 本件では、この事件をきっかけにして、児童・少年の発達障害に関する社会の理解を深めるという思い自体には問題がない。
 だが、医師自ら出版、講演、学習会組織などをして正確に情報を提供するのではなく、出版社に捜査情報を提供しているだけであり、そもそも秘密の開示と目的とは一致していない。
 少年が殺人者ではないかどうかこそ裁判所が判断すべきことで、法律家でもない医師が勝手に判断できることではない。
 ジャーナリズムに情報を開示する目的としての正当性自体疑問がある。
 しかも、捜査情報そのものをフリージャーナリストと出版社に提供し、出版のありかたなどについて厳密な打合せなどしないまま出版するのを放置したが、秘密の開示の方法としてそうする必要性を認めることなどおよそできない。
 また、少年審判継続中に出版社に情報提供をしなければならない緊急性もおよそない。
 出版自体について裁判所にも少年側にもなんら説明もなく、同意も得ることなく、その表紙には鑑定資料であった少年の直筆の犯行計画書を使うなど社会的にみても情報提供のありかたとしての相当性もない。

 以上総合的に考えても、医師が数度にわたり供述調書や鑑定書などの資料を出版社側に開示したことについて、処罰を控える方が社会的に見ても相当であるとみるべき「正当な理由」はない。

 医師の処罰は当然である。
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2009年04月12日

■取調べ可視化ー部分録画の危険性

■「佐賀・唐津の女性殺害:供述DVDに信用性/懲役18年を破棄、一転無期/福岡高裁」
 09年3月26日、毎日新聞(西部朝刊)29頁のタイトルは、我々刑訴法学者が一瞬眉を曇らせるものであった。
 判決によると、被告の青年は07年12月、31万円を借りていた同市内の飲食店店員の被害女性(当時21歳)に対し、借金返済を逃れるために絞殺した上、財布から現金約3500円を盗み、さらに遺体を遺棄したという。
 一審は、殺害を行っている最中に、借金のことも意識し、これを免れるという具体的な目的意識があったと認定できないとし、強盗罪の成立を否定した。判決は懲役18年であった。その際、強盗目的を認める調書を検察官が読み上げて内容を確認する場面の録画DVDが証拠に採用されたが、自白の信用性を高める上でさほど重視しなかった。先行する取調べでなにがあったのかが解るわけではなく、調書の「読み聞け」の手続は、そのまとめに過ぎないのであるから一審判断は当然であった。
 しかし、高裁は、強盗目的を認める取調べ調書の内容を確認する場面を録音録画したDVDを信用できると判断して、逆に、強盗目的を認定。とすると、罪名は、強盗殺人になる。裁判所が選択できる刑罰は、死刑か無期かしかない。高裁は、無期を選んだ。
 報道によると、「検察側が提出したDVDの動画はわずか約20分間。強盗目的を認めた調書の内容を検察官が読み上げ、被告が署名、なつ印をする様子が映っている」という。
 しかし、密室取調べを続けることによって、被疑者に、取調べでは自白するしかないと思いこませることは、さほど難しいことではない。「調書とはそんなものだ」と思いこませて、素直に署名指印に応じさせること、それを録音録画することは可能だ。
 実際には、自白に至るまでの取調べの過程が問題だ。だが、我が国の捜査機関は頑としてこの部分を密室の中にしまい込んでおこうとする。
 「録音録画していれば、自白しなくなる」。
 これが最大の根拠だが、なんら裏づけはない。違法、不当、強制、強要、脅しと約束、便宜供与、、、様々な手法が使えなくなるから、隠しておきたい、これが一面の本音だろう。また、取調べは、将来の公判廷における証拠を確保することに意味がある。取調べ過程自体が被疑者から情報を引き出す証拠収集の場なのであって、我が国捜査機関のこだわり、「反省して、自白させないと取調べではない」という固定観念では真相解明の場として取調べの役割を深めることもできない。
 「密室取調べ」。
 いずれ裁判員裁判が始まれば自壊すると思う。
 取材担当の記者とはこんなやりとりをした。
***09年03月26日毎日新聞(朝刊西部版)****
 甲南大法科大学院の渡辺修教授(刑事訴訟法)は、この日の高裁判決について「一部録画のやり方は捜査当局が都合のいい部分だけを立証しようとする危険性を浮き彫りにした」と指摘する。DVDで信用性を評価するためには取り調べの全過程を録画するのが前提。渡辺教授は「裁判員制度が始まれば公判前整理手続きで検察・弁護側の双方が録画で取り調べの全過程をチェックし、裁判員に評価してもらう必要がある」と話している。
posted by justice_justice at 09:55| ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2009年04月10日

■横浜事件再審免訴不当ー無罪こそ妥当 by Gishu

■「横浜事件「免訴」/「名誉回復へ戦い続く」/「無罪」刑事補償通じて」。
 09年3月31日読売新聞(朝刊)33頁は、こんな記事を掲載している。いわゆる「横浜事件」と呼ばれる戦前の言論弾圧事件で、治安維持法違反に問われたO氏の事件について、ご遺族が再審を継続して戦われておられた。1945年9月に横浜地裁が同氏に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を宣告したものであるが、同年10月には治安維持法は廃止され、その時点でなお審理中であった他の被告は免訴になったという。
■ 新聞報道で紹介された判決要旨では、横浜地裁は、次のように述べて、再審公判でも無罪ではなく、免訴を言い渡した。
 「免訴判決は、事後の事情による公訴権の消滅を理由に被告を刑事裁判手続きから解放するもので、手続きから一刻も早く解放されることが被告にとって利益であることなどから、「免訴の理由がある場合は免訴判決が言い渡されるべきだ」というのが確立した判例だ。
 被告の遺族らは、再審で無罪を得ることで名誉回復を図ろうとしており、その結論のみを望んでいると言っても過言ではない。免訴判決では、遺族らの意図が十分に達成されないことは明らかで、このような遺族らの心情自体は証拠に照らせば容易に理解できるが、ほかの再審の場合も含めて整合的に考察しなければならない。再審でも再び有罪とされる可能性もあり、審理打ち切りによる被告の利益が存在することは、通常の訴訟手続きの場合と同様と解される」。
■しかし、おかしい。
 再審公判手続を通常の公判と同じように扱ってよいという解釈はひとつの選択だ。「無罪」と明示することで、戦後になってなお司法が犯したえん罪でっち上げに手を貸した事実に目をつぶるものといってもよい。
 再審公判では、検察官は、有罪を維持すべき証拠は出せなかった。再審公判開始決定によって、そもそも有罪である状態が崩され、他に証拠がない限り、無罪であることが手続の上で明白になっている。
 そうした再審手続特有の性質を考えたときには、通常公判と同じように考えるべき必然性そのものがない。
 再審公判では、仮に訴訟条件がない場合でも、他方で、無罪であることがすべに立証済みなのであれば、その手続の基本原理ー無辜の救済のための非常手段であることを考えれば、無罪とすべきではないか。
 そんなことを考えて、次のコメントを掲載した。
****09年3月31日読売新聞(朝刊、神奈川版)33頁*****
 渡辺修・甲南大法科大学院教授(同)は「治安維持法の下でも無罪だった事案」と指摘。誤審した当時の裁判所だけでなく、戦後の裁判所の姿勢も「形式的な法解釈を続け、正義の実現を放棄した」と非難した。

posted by justice_justice at 19:50| ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2009年04月06日

■「有罪」ー「合理的疑いを超える証明」と証拠の厚み・重み(2) by Gishu

 毎日新聞09年3月31日(朝刊、西部本社版)は、「北九州八幡東病院の高齢者虐待/患者つめはぎ有罪/被害者側得心、現場は萎縮」と題する記事を掲載している。
 これも、耳目を集めるタイトルだ。事件は、北九州市の病院で、2007年6月に、看護師が、認知症の入院患者2人のつめを切り取ったというものだ。地裁は、3月30日に、有罪を認めて懲役6月・執行猶予3年の刑を宣告した。
 外形的な事実行為には争いがないようだ。
 ある患者の右足親指のつめ床のすき間にニッパーの刃を差し込んで少しずつ切除し、つめ床から出血したこと、別の患者については、右手の人さし指の腹を右足中指のつめの先端にあて、親指をつめの根元付近に押し当て、そのまま親指と人さし指でばんそうこうごとつめをつまむような要領でつめを切り取り、出血させたこと。
 これが外形的には傷害にあたることは間違いがない。だが、それが、老齢の認知症患者のつめのケアとしてやむ得ない範囲かどうか、業務として正当なのかどうかが問われている。
 新聞掲載の判決要旨では、次の点が摘示されている。
 「被告はAの家族から説明を求められたのに対し、フットケアであることの説明を行わないばかりか、自らの関与を否定する虚偽の説明をした。被告は主治医につめ切り行為に及んだことの報告、説明は行わずにつめがはがれていることのみを告げて医師において家族に対応するよう画策した。被告は看護部長から2人への関与を問われ、説明の機会を与えられたにもかかわらず、自らの関与を否定しうそをつき続けた。看護師らの間では、被告がしたような指先より深い個所までつめを切除する行為が看護師が行うべきフットケアであるという認識は共有されていない」。
 専門家の常識に照らしても、被告の対応が非常識でいきすぎたケアであったのかどうか、新聞に掲載されている判決要旨を見てもはっきりしない。
 老齢の認定証患者の爪がどのような状態になるのが普通であり、その場合、どんなケアが要るのか、その世界ならではの常識があると思う。
 現に、報道では、弁護側の鑑定書を作成した専門医が証人として出廷して「看護ケアであり評価できる」と述べていたという。
 判決要旨では、事件後に、被告人が、関与を否定したなどの経過が強調されて業務の正当性を否定されている嫌いがある。
 さらには、ごく特異な認定もなされている。
 「被告は当初、フットケアとして相応の配慮をしながらつめのケアを続けていたものと思われるが、本件のころはつめを切ることに熱中することで、つめ切り行為自体に楽しみを覚え、つめ切り行為を目的として本件各行為に及んでいたものと認められる」。
 介護、看護とすれすれの領域であるだけに、「犯罪」だと断定するのには今少し慎重であってもよくはないか。
 本件のつめの切除が明白にケアの範囲を超えているかどうか、それを看護師が上記のような「楽しみのため」という特異な理由から平然と行っていたのかどうか、若くはない被告人の長い経歴に照らしてもそう認定できるのか、、、証拠自体の重み、厚みで充分に犯罪性を推認できるのかどうか、いくぶん疑問が残る。
 その疑問を次ようなコメントにまとめて新聞に掲載した。

090331_mai.jpg

***毎日新聞(朝刊)09年3月31日***********
 ◇行為の認定不自然−−渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)の話
 看護師が患者のつめを切る行為を自らの楽しみにした、との認定には不自然さを感じる。被告が関与を否定したことも有罪の根拠の一つになったが、けがをさせたと患者家族や上司に指摘されて、つい否定してしまうこともある。合理的な疑いを超える証明がなされたのか疑問だ。有罪認定はもっと慎重であっていい。
posted by justice_justice at 12:57| ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2009年04月05日

■「有罪」ー「合理的疑いを超える証明」と証拠の厚み・重み@ by Gishu

 「幼児窒息死母実刑/直接証拠なき判決の困難さ」。こんな刺激的なタイトルの紹介記事が、読売新聞09年1月10日(岡山版)に載っている。
 幼児が七味唐辛子を大量に飲み込み窒息しした事件で、母親が殺人罪で起訴されるという不可解な事件だ。
 一審判決は、3人の鑑定医が「七味唐辛子を自ら口に入れた場合、閉塞するほど大量に気管に入ることはない」と認めたこと等を根拠に、被告人が七味唐辛子を被害児童の口に入れたと認定した。もっとも、さらに加えて、母親はさらに積極的に鼻や口などを押さえたとされた行為ついては「合理的疑いが残る」とした。
 どうみるべきか。同誌には、こんなコメントを載せてみた。
****読売新聞09年1月10日(岡山版・朝刊)********
 「有罪とするには、鑑定や状況証拠でも犯人だとくっきり示すような分かりやすく明確なものが必要。しかし今回は有罪、無罪どちらにも解釈できる証拠しかなかった。裁判所の判断には首をかしげる」

posted by justice_justice at 23:21| ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

■死刑か無期かー「量刑」の基準 by GISHU

中日新聞08年12月17日(夕刊)は、「立てこもり判決/警官射殺…無期/うなずく大林被告/落胆、うつむく遺族」と題する記事を掲載。07年5月に起きた拳銃など所持して自らの妻と娘を人質に立てこもり事件を起こした被告に対する判決を巡る動きを伝えた。検察官の死刑求刑に対する裁判所の答は、無期懲役であった。
 07年5月17日から18日にかけて、当時50才の元暴力団員の被告が、拳銃を手にして元妻(52)を人質にとり、28時間余り自宅に立てこもった。そして、警戒に当たっていた地域警察官(55)や次女(23)らに発砲をくり返し、3人に重傷を負わせた。そして、最後に自宅そばに配備された県警機動隊特殊部隊(SAT)の林一歩警部(当時23)を射殺した。公判では、弁護側は、殺意の有無、犯行当時の刑事責任能力などを情状として争った。
 死者、一人。しかし、その命の重みをどうみるか。死亡した警察官は、現場警備に配置された。犯人は、警察官に向けて発砲した。あたれば死ぬ、誰があたって死ぬかまで特定できなくとも、殺傷力確実な拳銃を警察官に向けて発砲した。治安維持に対する最大の、計画した、悪質な行為ではないか。
 判決文は、死刑を回避する理由として、「場当たり的犯行で、更生は可能」といった辺りを強調するものであるが、犯罪の計画性や場当たり性などどうとでもとれる。しかし、「被害の拡大、人質の安全を確保するため職務として現地に派遣され警戒にあたる警察官に抵抗するため、現に拳銃を発砲した」。この事実はそのままのものとして残る。
 どこが無計画なのか了解しがたい。「更生可能」とはなにからの更生が可能な状態を意味しているのか。
 刑罰の本質は、国家、社会、個人に与えた損害への応報である。
 まずこれで量刑をすべきた。更生するかどうかなどは、言い渡した刑を執行する過程で解ることであり、そんな主観的な将来予想で量刑を決めることはできない。
 死刑を執行するに値しない状態になったと矯正当局が判断した場合に、執行の時期を送らせる裁量はあってよい。が、裁判所がこれを肩代わりすべきではない。
 「手続は適正に、処罰は厳正に」。この原則を守りたい。
 こんなコメントを掲載した。
*****中日新聞08年12月17日(夕刊)********
 渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)の話 銃を持って長時間立てこもり、多くの人を傷つけた事件。綿密な計画性の有無や死者の数は死刑を回避する理由になるのだろうか。治安維持の先頭に立つ警察官を狙い打ちした悪質性、銃による犯罪で多くの市民を震撼させた特殊性が考慮されていたとは感じられない。物足りなさを感じるし、無期懲役の判決に説得力がない。

posted by justice_justice at 08:54| ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2008年08月23日

■八戸母子殺害事件ー「家庭内殺人」の構図 by Gishu


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■「家庭内殺人事件」。
 08年1月、青森県八戸市で、猟奇的な殺人事件が起きた。とあるアパートの一室から出火。焼け跡に、母(43歳)、次男(15歳)、長女(13歳)の死体が見つかった。報道によると、3人は首を切られたことが原因で失血死。どうやら睡眠薬を飲まされて無意識になったところを殺害されたらしいという。さらに、母の腹部が切り裂かれて人形が詰められていたとう。他にも、母と次男の腕の内側に死後につけられたとみられる複数の傷があったようだ。犯人は、すぐに見つかった。10日の朝、JR八戸駅で、この家の長男(当時18歳)がサバイバルナイフを振り回しているところを発見されて現行犯逮捕されている。犯行への関与は、長男も認めたという。
 この事件について、犯人が少年であったため、少年審判が継続することとなったが、青森家裁は、8月20日、事件を検察官に送る「逆送」を決定した。
 今後、検察官が通常の刑事事件と同じく青森地裁に公訴の提起をし、公開の刑事裁判の場で、再度、少年の「心の闇」を探る審理がすすめられることとなる。
■「なにがあったのか」。
 これまでの新聞記事では、父母の離婚、母のその後の男性関係、母との確執、その男性と仲良くする妹への思い、注意を聞かない次男へのいらだち等などが指摘されている。本人の人格障害、発達障害、適応障害などを摘示する記事や関係者のコメントも報道されているのだが、この点は、少年の生い立ちすべてをビデオに収めて事後に検証しない限り(そして現実的には不可能なのだが)、断片的なエピソードをつまみ食いしても実はわからないのかもしれない。
 報道されている決定要旨をみても、動機面について、長年にわたる家族に対する愛憎、疎外、閉塞の気持ちが蓄積されていてそれが突発的な殺人衝動になったといった趣旨の捉え方をしているようだが、実は、大枠で現象を説明した限度では正しいのかもしれないが、「なるほど」と得心するものではない。
■「鑑定論争」。 
 捜査段階で、検察官は、嘱託鑑定をした。人格障害があるという。適応障害、離人症、現実感喪失といった精神状態であるが、なお是非弁識能力・行動制御能力は一定程度の傷害しかなく、著しい障害はないという。家裁が実施した鑑定では、端的に、少年は幻覚・妄想及び情動興奮を伴う特定不能の精神病性障害に罹患(りかん)しており、その程度は重度で、本件当時、是非弁別能力及び行動制御能力は完全に失われていたと結論付けている。しかし、家裁は、「同鑑定は、殺害や死体損壊の行為時の記憶が、完全に欠損している等という少年の説明に基づき、行為時の精神状態を判断している点において、裁判所が認定した事実とは異なる事実を前提としていることから、採用することはできない」と述べてあっさり斥けた。
■少年法20条
 とすれば、「少年法20条(検察官への送致)」が適用となる。こう規定する。
「1 家庭裁判所は、死刑、懲役又は禁錮に当たる罪の事件について、調査の結果、その罪質及び情状に照らして刑事処分を相当と認めるときは、決定をもつて、これを管轄地方裁判所に対応する検察庁の検察官に送致しなければならない。
 2 前項の規定にかかわらず、家庭裁判所は、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪の事件であつて、その罪を犯すとき十六歳以上の少年に係るものについては、同項の決定をしなければならない。ただし、調査の結果、犯行の動機及び態様、犯行後の情況、少年の性格、年齢、行状及び環境その他の事情を考慮し、刑事処分以外の措置を相当と認めるときは、この限りでない。」
 家族3名を猟奇的な方法で殺害した残虐性、事後の放火等社会的にも重大な結果をもたらしていること等を考慮すると、刑事処分が相当となる。
■「親殺し」のこと
 もっとも気になるのは、「親を殺す子」のいる事実。それが偶然かどうか最近新聞報道でも目につくようになっていること。社縁が薄れ、地縁もかなり以前に希薄化し、血縁といっても叔父叔母甥姪になれば赤の他人と同じ程度になっており、最後に、人と人を結ぶ最後の絆が、「家庭」であるのだが、その家庭という人間関係さえもが、そこに参加する個々人にとって重荷になってきているのだろうか、、、そうさせた社会構造上の原因はどこにあるのだろうか。
 それを法廷での審理をたどりながら、考えてみたい。そんなことを考えながら、河北新報に次のようなコメントを掲載した。
****<引用、河北新報(朝刊)08年08月21日>****
<市民に公開は妥当/渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)の話>
 この長男の「心の状態」で刑罰を科してよいのか、保護処分が適当なのかについて、市民が傍聴できる公開の刑事裁判で判断する選択をした決定は妥当だ。家庭内殺人が起きる背景や原因については社会が知る必要があるし、対立する精神鑑定のどちらが妥当なのかは、刑事裁判の厳格なルールによって判断すべきだからだ。

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2008年07月04日

■武雄・患者射殺事件ー「被害」とは? by GISHU


saga_imada.jpg■佐賀新聞6月11日朝刊は「武雄・患者射殺、今田被告に懲役24年」と題する記事を掲載している。これは、2007年11月に、武雄市の病院で、入院患者であった一般市民が暴力団関係者に、対立抗争する組関係者と間違えられて射殺された事件があった。この事件で後に暴力団員が逮捕されて裁判に至ったのであるが、無期懲役の求刑に対して、裁判所は、懲役24年を宣告した。
 この事件について、佐賀新聞に次のコメントを掲載した。

**************<佐賀新聞08年6月11日**************
 甲南大学法科大学院の渡辺修教授は「量刑に反映される差は、命の重さではなく、その命が奪われた結果、招いた影響の大きさにある」と語る。憲法14条「法の下の平等」にあるように、命の重みに変わりはない。その上で、事件ごとに「動機や犯行の態様などを個別具体的に検討していく」。暴力団組員による犯行で、凶器は拳銃。被害者は一人。
 「確かに似ているが、長崎市長の事件は選挙を妨害し、民主主義の根幹を揺るがした点で回復不可能な結果を招いている。
 一方、武雄の事件も求刑の時点では死刑もやむを得ないと感じたが、その後、示談が成立していることで、裁判所は一定の被害の回復がなされたと判断したのだろう」と話した。
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2008年07月03日

■神戸質店強盗殺人事件ー「市民良識」の目ーby GISHU

■信濃毎日新聞に「05年の神戸質店経営者強殺、地裁が判決/被告に無罪/「関与認められぬ」」と題して、神戸の裁判の紹介記事が掲載された(08/07/01, 信濃毎日新聞朝刊, 35頁)。
 事件は、2005年10月のこと、神戸市中央区にある質店経営者が殺害されたものである。検察側は、金品も盗まれたものと判断して強盗殺人罪で被告人を起訴した。被告人は、電気工の仕事をしていた。検察側は、店内のファイルから被告人の指紋が発見されたこと、(2)居室内に土足で入った痕跡があること、(3)店から出る被告人を見た目撃者の存在などを裏付ける証拠があるとして立件したものだ。検察官の求刑は無期懲役であった。
 しかし、神戸地裁は無罪を宣告した。手元にある判決文コピーによると、被告人は被害者から質店に監視カメラをつける相談を受けており、そのときに、土足で入ったとしても不自然ではないこと、その際に、店の図面を見るのでファイルに指紋がついたことなどの被告の弁解も不自然ではないとし、他方、目撃者の証言については、事件から1年10月後に写真を見せられて被告人を目撃した人と同一としたものだが、信用性には疑問があるとしている。
 検察官が起訴するとき、判決文からもそれなりに被告人と犯人の結びつきを認められる証拠はあるものだ。だから、いわば「有罪の作文」は十分にできるのが普通である。
 しかし、その証拠をよく吟味し、被告側の主張と弁解にも耳を傾けると、証拠のいわばすき間もある。
 「合理的疑い」、という言い方をするが、有罪だと断定するのを妨げる気持ちを持つかどうかは、実は、事実認定者の全人格的な判断にかかる。
 プロの裁判官は、捜査ー公訴がなされた事件の被告人は有罪の可能性が高いという意識を知らず知らずに身につける。そのプロ集団の文化意識からは抜け出せない。
 それを変えつつあるのが、裁判員裁判だ。
 「市民良識」。新しい証拠評価の基準が、裁判官の間にも浸透し始めている。
 その目から、判決文からも伺え、新聞記事からも推測できる証拠構造を眺めると、確かに、疑問が残る。
 その良識が支えとなる疑問を大切にして、事実認定をすること、これが刑事裁判の鉄則ー「疑わしきは被告人の利益に」、「合理的疑いを超える証明」が意味するところだ。
 今回の判決は評価できる。
 そこで、「犯人特定は困難」と題する次のようなコメントを掲載してもらった。
************************<信毎08年7月1日朝刊>*************
 重大事件を状況証拠だけでも起訴し、有罪・無罪の判断を裁判所に委ねるのは妥当だ。ただ、特定の場所にしか被告の指紋がなく、金品強奪の裏付けも十分でない。被告を犯人と認めた目撃者の証言も、事件から二年近くたって見せられた写真に基づくもので、裁判員制度を前に良識的な市民の視点で見れば、被告を犯人と断定するのは困難。裁判官が強引に有罪とせず、「合理的疑い」を認めて無罪としたのは納得できる判断だ。
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2008年05月30日

■甲南大生「痴漢デッチ上げ事件」(3)ー初公判と今後について by GISHU

 痴漢でっち上げ事件として社会に知れ渡った事件の初公判が行われた。5月29日である。いくつかの新聞記事を拾って裁判のことを考えたい。

□本人は反省しているか。
 この点が一番気になる。そして、記事をみていると、反省への姿勢がかいま見えるように思うが、どうか。
 例えば、産経5月29日(夕刊)は、次のように裁判の様子を伝える。
「◆元甲南大生、罪状認める
 大阪市営地下鉄の電車内で今年2月、会社員の男性を痴漢にでっち上げるなどしたとして、虚偽告訴と強盗未遂の罪に問われた元甲南大法学部4年、M被告(24)=退学処分=の初公判が29日、大阪地裁(樋口裕晃裁判官)で開かれた。M被告は罪状認否で『間違いありません』と起訴事実を認めた。
 M被告は丸刈り頭で、黒い上下のスーツ姿。弱々しい声で「失礼します」と軽く会釈して入廷した。」
 丸刈り、失礼しますのあいさつ、、、。年令からみてまだ社会慣れはしていない彼の精一杯の反省の姿勢ではないか。

 また、読売5月29日(夕刊)は、痴漢えん罪事件の被害者との関係で、「会社員は大阪府迷惑防止条例違反の現行犯で逮捕され、約22時間拘束された。この日までにM被告の両親らと会い、謝罪の意思を伝えられたという」と紹介している。

 産経上記は、あわせて、次の模様も紹介している。「閉廷後、弁護人はM被告が『世間のみなさんや被害者に申しわけない』と謝罪の言葉を述べていることを明らかにした。」

□罪を認めているのか。
 この点について、通常「罪状認否」と呼ぶ手続段階で、弁護人は、次のような法律構成を主張したことが紹介されている。
 「弁護側は、痴漢をでっち上げた犯行について捜査段階で自白したため、刑の減免になるとし、強盗未遂は恐喝にとどまると主張した」。

 これは、法律の専門家である弁護士が、証拠関係を精査した上で、犯行関与自体は争わないが、ただ、その法的な評価について、被告人の立場から意見をとりまとめたものである。
 被告人本人の反省の姿勢と矛盾するものではない。
 本人の反省を前提にしつつ、弁護人の責任において、法的な構成に関する異なる視点を裁判所に提供するのは、弁護人としての当然の責務である。

□犯情は悪質か
 これ自体は、否定しがたい。
 通勤通学で混み合う電車に乗らざるを得ない多くの善良な市民にとって男女を問わず、「痴漢えん罪」に巻き込まれる危険性を実感させた事件である。犯情の悪質さは否定しがたい。

 また、記事によると、気になる事実の摘示もある。日経5月29日(夕刊)は、次のような点を指摘している。
 「検察側は冒頭陳述で、M被告が犯行前、共謀した知人の無職女(31)=書類送検=に「気の弱そうなおっさんを狙え」と指示していたと述べた。二人が知り合いであると発覚しないよう携帯電話のメールや着信履歴を消すよう指示し女が自首した後に「家族を皆殺しにしてやる。自白を取り消してこい」と迫っていたことも明らかにした」。

 犯行後の罪証隠滅や共犯者口止めは場合によっては別罪を構成するおそれもある。

□制裁は受けているのか。

 M被告の呼称は「K大学生」から「元大学生」「元K大学生」と変わっている。学生の身分を失ったのだろう。
 それ自体社会的な制裁としての意味がある。

 反省、一定の制裁、被害者への謝罪、、、、こうした被告人に酌むべき事情も十分に汲みながらも、行った犯罪の重みについては、深く自覚し、然るべき刑事罰にも服してもらいたいものだ。
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2008年04月24日

■裁判と「調書」−時代遅れの日本の法廷


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■一枚の写真と一新聞記事が心に残る。
長野県の地域新聞であり、歴史と格式のある信濃毎日新聞の08年4月15日朝刊にこんな見出しの記事が載った。
 「小諸の紀元会集団暴行死地裁判決/公判調書未完成のまま言い渡し/長野地裁」
 内容は、といえば、長野地裁が4月10日に判決を宣告したある刑事事件で、それ以前の公判調書が未完成であったことを紹介するものだ。
 記事は、こんな問題を提起した。
 「来年五月施行方針の裁判員制度を見据え、期日に間を置かない『連日開廷』が先行。調書作成が間に合わず、現行の刑事訴訟法の規定が事実上守られていない事態となっている」。
■確かに記事の指摘する通りだ。
 ただ、法は、次回期日までに調書作成が間に合わないときには、当事者の請求によって前回の証人尋問の要旨を書記官が告知することを求めている。その要約の正確性には異議をとどめておくこともできる(刑訴法50条)。
 また、もし事実を争う事件であって、重要な証人尋問の調書であれば、その完成も待たずに次回期日を指定することは事実上はない。それ自体不当な訴訟指揮になる。もともとそうしたときには、調書の完成時期とそれを読み込んで準備する時間を見込んで、次回期日の相談をする。
■今回の経過について、記事は次のように紹介している。
 「長野地裁で九日午後に開いた公判は、証人尋問や被告人質問などを行い、午後五時すぎに結審。翌十日午前九時半に土屋靖之裁判長が判決を言い渡したが、同地裁によると、この時点で九日の公判調書は完成していなかった。十四日現在も完成していない」。
 が、上記のように、もし調書なき判決宣告が実質的に不当になるおそれがあるなら、検察官、弁護人においてしかるべき措置を求めているはず。
 そうでないなら、実質的にみて、当該事件の判決の形成上あいて調書に頼るまでの必要はなかったということだろう。
■ねんのため。
 「証拠」とは、公判廷で内容を確認したその情報そのものである。証人が公判廷で証言した、そのときに裁判官が聞いたことが証拠なのであって、これを記録の残した証人尋問調書が証拠なのではない。これは単なる手続の記録に留まる。
 「公判中心主義」「直接主義」という証拠法の原理は、このことを意味する。
 その意味でも、公判廷で取調べをした証人の証言をそのまま心証に反映させて裁判官が判断をしたことに実質的には問題はない。
■もし、裁判員裁判をにらんだ問題整理をするなら、もっと簡単なことだ。
 速記制度を充実させ、しかも、ワープロ情報をそのままデジタル化して、評議室でいつでも裁判員が「キーワード」を打ち込めば該当の箇所を検索できるシステム、録画もして、証人の表情も再生できるシステムを導入しておくべき、という点だ。
 世界に冠たるソニーを擁する我が国の法廷は、ブログ編集者がみたアジア諸国の法廷の中で、もっとも古色蒼然たるものであった。
■冒頭の写真は2002年の台湾の士林市の裁判所の法廷だ。廷吏が法廷の証言をすべてワープロで打ち込み、弁護人も検察官もモニターでこれを確認しながら、証人尋問を継続でき、正式な記録もすぐにデータベース化される。オンラインでのアクセスもできる、、、そうであれば、公判調書は遅くとも判決宣告までに作成せよ!などという時代遅れの規定を刑訴法に残す必要はなくなる。
 そこで、次のようなコメントを掲載した。

****<引用>**********
 甲南大学法科大学院の渡辺修教授(刑事訴訟法)は「判決は調書を参照しなくても宣告できるので実質的な問題はない」とする一方で、「日本の裁判所が、諸外国のように速記を省くなど、公判と並行して迅速に調書を作成できるような工夫をしてこなかったのは疑問だ」としている。

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2008年04月22日

■光市母子殺人事件と死刑判決

■最高裁は平成18年6月20日に、光市母子殺害事件について、一審、控訴審が無期懲役を選んだ判断を破棄して、差戻とした。
 その際、死刑選択の基準について、次のように述べた。
************************************
死刑は,究極のしゅん厳な刑であり,慎重に適用すべきものであることは疑いがない。しかし,当審判例(最高裁昭和56年(あ)第1505号同58年7月8日第二小法廷判決・刑集37巻6号609頁)が示すように,死刑制度を存置する現行法制の下では,犯行の罪質,動機,態様殊に殺害の手段方法の執よう性・残虐性,結果の重大性殊に殺害された被害者の数,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき,その罪責が誠に重大であって,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には,死刑の選択をするほかないものといわなければならない。
 これを本件についてみると,被告人は,強姦によってでも性行為をしたいと考え,布テープやひもなどを用意した上,日中若い主婦が留守を守るアパートの居室を物色して被害者方に至り,排水検査の作業員を装って室内に上がり込み,被害者のすきを見て背後から抱き付き,被害者が驚いて悲鳴を上げ,手足をばたつかせるなど激しく抵抗するのに対して,被害者を姦淫するため殺害しようと決意し,その頸部を両手で強く絞め付けて殺害し,万一のそ生に備えて両手首を布テープで緊縛したり,同テープで鼻口部をふさぐなどした上,臆することなく姦淫を遂げた。さらに,被告人は,この間,被害児が被害者にすがりつくようにして激しく泣き続けていたことを意にも介しなかったばかりか,上記犯行後,泣き声から犯行が発覚することを恐れ,殺意をもって,被害児を持ち上げて床にたたき付けるなどした上,なおも泣きながら母親の遺体にはい寄ろうとする被害児の首に所携のひもを巻いて絞め付け,被害児をも殺害したものである。強姦を遂げるため被害者を殺害して姦淫し,更にいたいけな幼児までも殺害した各犯行の罪質は甚だ悪質であり,2名の尊い命を奪った結果も極めて重大である。各犯行の動機及び経緯に酌むべき点はみじんもなく,強姦及び殺人の強固な犯意の下に,何ら落ち度のない被害者らの生命と尊厳を相次いで踏みにじった犯行は,冷酷,残虐にして非人間的な所業であるといわざるを得ない。さらに,被告人は,被害者らを殺害した後,被害児の死体を押し入れの天袋に投げ入れ,被害者の死体を押し入れに隠すなどして犯行の発覚を遅らせようとし,被害者の財布を窃取しているなど,犯行後の情状も良くない。遺族の被害感情はしゅん烈を極め,これに対し,慰謝の措置は全く講じられていない。
白昼,ごく普通の家庭の母子が自らには何の責められるべき点もないのに自宅で惨殺された事件として社会に大きな衝撃を与えた点も軽視できない。
 以上の諸点を総合すると,被告人の罪責は誠に重大であって,特に酌量すべき事情がない限り,死刑の選択をするほかないものといわざるを得ない。
************************************

 4月22日、差戻審である広島高裁は、最高裁判例のいう「特に酌量すべき事情」が見あたらないことなどを理由として、死刑を宣告した。
 事件当時18才の少年、現在は、27才の青年に死刑が科された。おそらくは、被告側は上告することとなろう。事件の決着はしばらくかかる。

■では、どうみるべきか。
 刑罰制度としての死刑の是非論について言えば、これ自体が国家の権力発動のあり方として残虐、破廉恥、不道徳、、、とは思えない。「犯罪」があり、刑罰権の発動を国家が独占する以上、市民社会の安全と市民の納得を得るためにも、死刑は必要だ。
■ 刑罰ー量刑の基本は、まず応報である。被害の重みに応じた刑の割り当てが要る。ただ、情状面で特段酌むべき理由があれば減軽してもいい。しかし、この減軽の範囲は、社会に対する警告、一般予防の観点から歯止めを掛けなければならない。
 こうして、応報を土台にして、本人の改善更生の事実と可能性に照らして減軽するが、一般予防と社会の処罰感情を基準にして歯止めをかけるのが量刑としては妥当だ。
■ その意味で、最高裁が、死刑を選択する基準として、結果の重み、被害の重大さを軸にすることを宣言した事実は重い。特に酌量すべき事情がなければ、ふたりの人命を奪った犯行にふさわしい刑罰は死刑である。
■ ところで、報道によると、本件の場合、上告した後の被告人の裁判所に対する態度、事件に取り組む姿勢が変化した。殺意の否認、犯行態様の悪質性に対する弁解、一般人には荒唐無稽としかとれない説明、、、
 そうした中から、死刑をぜひ回避すべき特段の理由はでてこないのではないか。
 死刑の結論はやむをえないと思う。
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2008年04月11日

■介護殺人ー認知症患者の嘱託殺人事件(後日談)

■産経新聞のウエッブニュースをみていると、
「認知症の夫殺害の妻に懲役3年/嘱託殺人認めず」
 というタイトルの記事が出た(08.4.10 21:01)。
 先にブログ編者がコメントした事件の裁判結果だ。

「大阪府八尾市の市営住宅で昨年9月、認知症の夫=当時(59)=の首を絞めて殺害したとして殺人罪に問われた無職、O被告(61)に対し、大阪地裁は10日、懲役3年(求刑・懲役6年)を言い渡した]。
■裁判では、認知症の夫が殺害前にこれを嘱託したのではないかが争われたが、記事によると、裁判長は、「認知症は相当悪化しており、被害者が自分の生命を絶つことの重大性を理解していたとは認められない」として主張を認めなかったという。
 この限りでは、相当な判断だと思う。ただ、やはり夫に便を付けられたことに激高した衝動的な行動であったことに関心を寄せて、被介護者の将来を憂えてやむなく選択した殺人とは異なる、と判断したようだ。
 これもこれでわからなくはない。
 また、求刑6年を半分の3年にした判断にも、ケースの重みを十分に図った裁判長の人柄さえ偲ばれる。
 それにしても、と思ってしまう。彼女を刑務所に3年入れたところでなんの意味があるのか、と。
■実は、先日産経新聞にコメント記事を掲載した元の原稿には、最後に次の1行があった。

 「認知症の進行の中で人の尊厳が残る時期に死なせるやむをえない選択、心身の疲労度、自首の事実などを考慮し執行猶予にすべきだ。」

■被告人の激高が生じた背景こそ孤立した介護の積み重ねによる疲労困憊があるのではないか。「社会的な意味での心神耗弱状態」といってもいい。精神医学的な意味ではなお「耐えよ!」というべき状態なのかも知れないが、現代の個人分断化現象の中で、市民一人一人が負いきれない負担の中であがいているのではないか、、、
 それが、法廷という場で、一人の姿のみがくっきりと映る場所であるがためにかえって彼女が立ち戻らなければならない社会の冷たい現実が見えてこないのではないか。
■といって、「孤立化した個人」を刑事裁判の枠で立証するのは困難だ。
 それは、将来裁判員の「良識」「世間知」「経験則」として取り込んでもらうしかない、、、、
■裁判結果は穏当なものではあったのだろうが、なお心の中に引っかかりが消えない事件であった。

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2008年04月09日

■介護殺人ー認知症患者の嘱託殺人事件

■「介護殺人/大阪地裁/10日判決/認知症の夫は死を望んだか」
 こんなタイトルで、08年4月8日産経新聞(朝刊)が、認知症の夫(当時、59才)の介護に疲れた妻(61)が07年9月に首を絞めて殺害した事件で、検察側は6年を求刑し、弁護側が、自首の成立の他に、嘱託による殺人である旨主張した事件があることを紹介している。
 記事を引用して事件の一端をみてみよう。
****<引用>****
 元トラック運転手の夫は平成13年ごろに心臓手術を受けた後、パーキンソン病を発病。・・・事件があった9月27日夜、小倉被告が帰宅すると、裸の夫が床にまいた便に体をすりつけていた。「もう面倒みない」。疲労困憊(こんぱい)だった小倉被告が怒りをぶつけると、夫は両手を交差させて自分の首に押し当てるしぐさをした。・・・「このとき、もしかしたら殺してほしいんかなと。でも半分は挑発かなと思いました」と公判で小倉被告は述べた。
 「死にたかったら自分で死にいよ」。そう言うと、小倉被告は夫の手に自分の手を押し当てた。その後、夫が便にまみれた手で自分の髪をつかんだため、カッとなり首を絞めたという。
 認知症発症後、夫は「死」を意識したとみられる行動をこれまでに何度かとっていた。深夜、包丁を持ち出して「死のう」と言ったり、ベルトなどを首に巻き付けたりして首つりを図ることがあった。
********
■重たい事件だとおもった。関連資料を読んだり、類似の事件の状況を日経テレコンで検索したりしながら、考えた。認知症患者が「嘱託」を有効適法にしたとみていいか、、、これもケースバイケースだと思う。妻は嘱託を受けた殺意をもったのか、それとも衝動的に殺意を抱いたままの犯行か、、、これも分かれ目は難しい。長年の介護の疲弊は、いわば「社会的な心神耗弱状態」を生む。精神医学での割り切り方では説明がつかない状態があったのではないか。
 介護疲れの殺人は、社会の福祉政策の貧困が生む社会犯罪だ。犯人も被害者も、その被害者だ。
 従来の刑法の概念は、合理的な個人が、家族、地域、地域にある職域、地域にある学校、地域を基盤とする人的組織、、、に囲まれ守られている状態を前提にしてできた。
 「心神喪失、心神耗弱」「嘱託殺人」「同意殺人」もそうした近代市民社会を前提にしている。
 それが、果たして、個人が完全に孤立化し分断化され、国家・自治体・巨大企業といった「組織」に支配されている現代社会の犯罪状況を分析するのにもそのまま使えるのか疑問がある。
 そこで、次のようなコメントを掲載した。
****<引用 08年04月08日産経(朝刊)>****
 「認知症患者が真意で殺害を嘱託したと認定するには殺害態様の相当性など市民も納得する状況証拠が必要だ。妻の説明では衝動的な殺意しか認定できない。ただ、住民が互いに支え合う地域がなくなった社会で、介護に疲労困憊して起きる殺人に厳罰を科して防ぐという検察の論告では、市民の共感を得られないだろう」


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2008年03月26日

■被疑者取調べの限界ー弁護人接見内容の聴取禁止

■鹿児島県の県議選に関連して、住民らの買収工作があったと警察がデッチ上げて、虚偽自白を重ねさせる強引な捜査が行われたいわゆる志布志町事件」。
 これに関連して、実は、取調べでは、警察も検察も組織的計画的継続的に、弁護人との接見内容を被疑者から聞き出し、これを調書化した。
 しかも、あたかもあ弁護人が「真犯人にしらばくれること」「うそをついてでもシラを切れ」と助言しているように、ねじ曲げた調書を複数作る、という暴挙まで行っていた。
■これを接見交通権の侵害などとする国賠訴訟が提起されていたが、鹿児島地裁は、3月24日の判決で、被疑者取調べで接見内容を聴取すること自体が、法の保障する接見交通権を侵害することを端的に認めた。
 逆に言えば、被疑者取調べの対象から、接見内容を除外すること、接見内容の取調べ禁止を宣言したものといっていい。
■ 弁護人と被疑者被告人が打ち合わせたその内容そのものは、とりわけ警察、検察、裁判所に対して秘密でなければならない。
 本人等が合意の上で、これを明らかにすることはあってもよい。
 しかし、被疑者・被告人と弁護人双方がよく検討した上で、両者の合意がなければ、一方が勝手に開示することも認めてはならない。
 「防御に関する情報を秘密にしておくこと」。これは、被疑者・被告人にとっても、弁護人にとっても、保障されべき法的な利益、と認識されなければならない。
■今回の判決は、実質的に、「防御に関する情報の秘密性」(防御の秘密)を法的に保護することを認めたのと等しい。接見の場の秘密を保護することにとどまらず、情報内容自体の秘密の保護まで保障することを認めた判決は画期的といっていい。
 そこで、毎日新聞3月25日(西部朝刊)に次のコメントを掲載した。
***<引用>***
◇画期的な判決−−渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)の話
 接見内容を捜査機関が取り調べで聞き出すと、弁護人は適切な助言を控えて萎縮(いしゅく)してしまう。これを弁護人の接見交通権の侵害ととらえた今回の判決は画期的だ。取り調べの場でも接見内容の秘密の法的な保護を認めることで、冤罪(えんざい)を生むような捜査に歯止めをかけたと言える。

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2008年03月21日

■秋田連続児童殺害事件ー死刑回避の謎(2)

■秋田児童連続殺人事件の続報である。
 この事件については、共同通信を通じて、コメントを配信した。
 08年03月19日、信濃毎日新聞(夕刊)にこれが掲載されている。以下、同誌6頁から引用しておく。
 少しわかりにくい内容だと自ら反省している。端的に、「本件で死刑回避は納得できない」と言うべきであったし、今もそう思う。
 新聞の判決要旨をみても、「私小説」を読まされているようで、嫌になる。裁判官の被告の心情心理分析の巧拙、好悪で、死刑と無期が分かれるのは納得できない。
 将来を担うべき子どもふたりを故意に殺害したという大きな事実に注目すべきだし、しかも一人は愛娘ではないか。それを橋の欄干から突き落としたことになんの計画性も要らない、死刑に値すると思う。
 そんな思いとともに、では、これからの我が国の社会の再生をどうすべきか、についても考えてみたものだ。
 裁判員裁判に一縷の望みを託したいと思う。

****<引用>*************
<死刑回避は疑問だ>渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)の話

 被告の心の内側を注視して死刑を回避したのは、市民の良識としては分かりにくく疑問だ。
 将来、同種事件が起きたとき、市民が裁判員として真相解明や量刑判断に取り組めば、市民感覚が判決に反映され、社会のモラルの回復にも役立つだろう。
 とはいえ、事件は実の子を殺した親に無期懲役を宣告するという結末を迎え、親や家庭、地域、学校が子どもを守れないという事実を浮き彫りにした。
 厳罰を宣告しても「ゆとり社会」が再生されなければ、このような犯罪は防げない。



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2008年03月20日

■秋田連続児童殺害事件ー死刑回避の謎


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■藤里町2児童殺害事件について、秋田地裁は、死刑を検察官が求刑したのに、無期を選んだ。仄聞した範囲の判決理由では、実のところ、死刑を避けた積極的な理由がよくわからない。被告の主観面を相当綿密に、いわば「私小説」風に解明して、なお死刑を選ぶのに「躊躇を感ずる」裁判官の繊細な感性にしたがったのだろうか、、、
 河北新報08年3月20日の朝刊に、ややながめのコメントを掲載したので、以下、引用する。
***<引用>***************
■量刑基準法律で定めよ 秋田連続児童殺害・判決を読む/取り調べ可視化が不可欠/
 判決は、畠山鈴香被告の心の内側を微細に分析して死刑に値しないとしたが、長女と地域の子を故意に殺した結果を見たとき、市民の良識が納得するか疑問だ。刑法199条は「人を殺した者」に死刑、無期、5年以上の懲役を科すと定める。犯行の内容も量刑も幅が広い。だから、今回の判決のように犯人の主観を重視して厳罰を回避する余地も出てくる。

 将来、裁判員裁判で、裁判員が戸惑いなく量刑を決め、しかも全国的にも量刑が大きく食い違わないようにするためには、殺害方法と被害結果の程度を主な基準にして殺人を分類し、それに応じた刑罰を法律で定めておくべきだ。

 畠山被告は長女の死亡を転落事故と主張したが、救助の努力もなく、直ちに健忘が生じたという弁解は、市民の良識を納得させない。長女への殺意を認めた判断は妥当だ。ただ、検察側は捜査段階から死刑求刑を予想できた以上、公判で自白の任意性、信用性が争いになる場合に備え、取り調べをビデオ録画しておくべきだった。

 取調官と被告の言い分のどちらを信用するかを裁判官の選択に委ねる立証方法は相当でない。将来、争いのある自白が前提では死刑を科さない裁判員も出てこよう。裁判員裁判の定着には容疑者取り調べを録画するなど可視化が不可欠だ。

 裁判では、起訴から6カ月目に公判前整理手続きが始まり、それに半年をかけたが、その後の審理は月3、4回、それぞれ午前と午後を使って集中的に行われた。市民が参加する裁判員裁判実施を前に、迅速な裁判の運用はほぼ確立したと言える。
 また、検察は被告人質問で実寸大の橋の欄干の模型を使って長女死亡時の状況再現を試みるなど、裁判員裁判をにらんだ分かりやすい立証をしようと工夫しており、評価できる。

 もっとも、裁判を通して親子、家庭だけでなく地域、学校、警察が社会の将来を担う子どもを守れなかった残念な事実が浮き彫りになった。「人のきずな」を尊重する「ゆとり社会」を再生しなければ、同種事件は繰り返される。

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■放火殺人事件と「控訴断念」ー検察の責務

■毎日新聞08年3月20日(西部朝刊版)は、「北九州・八幡西区の殺人放火/片岸さんの無罪確定/地検、控訴せず」と題する記事を載せている。
 北九州市八幡西区で04年に起きた殺人放火事件について、先に被害者の妹さん、Kさんに対して、福岡地裁小倉支部は、無罪とした。
 主たる証拠であった、勾留中に、警察が意図的に同房者にした者が主張する「自白」内容は信用できないとするものであったが、19日に、福岡地検は、控訴しないことを決めたと報じている。
 これについて、こんなコメントを掲載した。
****<引用>******
 強力な捜査権を持つ検察が有罪を立証するのは1回で十分。最近の裁判は1審の審理を重視する傾向にあり、検察側はメンツにこだわって一市民にもう一度裁判をやり直させる重い負担を負わすべきではない。1審無罪で控訴を断念するケースは今後も増えるだろう。
***************
■ 今、刑事手続は大きく変化しつつある。
 公判前整理手続をふまえて、検察官が捜査段階の事件関係証拠を相当広く開示する。弁護人は、なにが争点になるのか開示された証拠を前提にして、検察官の起訴状、証明予定事実記載書について十分に点検吟味できる。
 争点と証拠調べの内容、段取りなどは、事前に決める。裁判が始まってから、検察官が隠し球を投げて、いきなり有罪を立証することはできない。
 一審の審理を大事にし、それにむけて、じっくり準備する。そうして、公判の審理は、集中して継続して行い、判決に至る。
 「公判中心主義」「一審中心主義」だ。
 となると、控訴審の役割は、おのずと、「事後審」に徹することとなる。
 一審の裁判のありかたー手続の面でも証拠の取扱いの面でも、それをふまえた事実認定の段取りの面でもー誤ったやり方をしていないか、を点検する機能に集中する。控訴審が、みずから、この被告人は犯人かどうかをあらためて、新しい証拠も加えて判断する、「続審」の任務を負うことはできない。
■ましてや、検察官は、捜査権と公訴権をもつ。
 強力な捜査の権限によって多様な証拠を集めて、有罪の証拠構造を組み立てて、裁判に臨む。
 ただ、実際に、これらを調べてできあがった「立証構造」に、信用すべからざる証拠が含まれており、そこがくずれれば、有罪を認定できる状態にはない。
 控訴審で、出せる証拠はあってはならないー何故なら、一審で出すべきであるから。
 その意味で、上記コメントのように、一審無罪判決に対して、検察が公訴権の一貫として、「控訴」するのは、原則としてこれをすべきではないこととなる。

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2008年03月06日

■「同房者証言の危険性」ー八幡放火殺人事件無罪判決に寄せて

■08年03月05日15時48分ネット配信の毎日新聞ニュースは、「<北九州殺人放火>兄殺害と放火は無罪/福岡地裁支部判決 」と報じた。
 04年3月に、北九州市八幡西区で当時58歳の男性が住む家が焼失。同人が死体で発見された。その妹が介護など世話をしていたところ、殺人犯と疑われて、余罪で逮捕勾留され取調べを受けたが否認。
 ところが、警察は、極めて特異な捜査方法をとった。「同房者捜査」である。同房者をスパイにして、房内で被疑者から事件について告白させるものだ。
 本件でも長期にわたり、故意に、同一の同房者をこの被告人と同じ房に入れ、「自白」を得た、とした。

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*写真は、朝日新聞08年3月5日(夕刊)の記事。

■配信記事によると、裁判所は次のように判断したという。
 「田口裁判長は『同房者によって供述を得ようとする捜査手法であり、任意性は認められない』と判断。捜査手法であり、任意性は認められない」と判断。『虚偽供述を誘発しかねない不当な方法で、適正手続き確保のためにも証拠能力は肯定できない』と捜査の問題点を指摘した。さらに『意図的に被告と女性を同房にしたと言え、代用監獄への身柄拘束を捜査に利用したとのそしりを免れない』と批判した」。
■ごく常識的な判断だと思う。同房者には前科がある他、覚せい剤事件で勾留中であったという。そうであれば、自分の事件についてなんらか有利な処分を期待し、そうでなくても、事件処理全般について警察・検察が手心を加えくれることなど期待して、警察・検察に迎合するように被告人の言動を曲解し、虚偽を述べ、あるいは被告人を引っかけて不用意な発言を引き出して「自白した」と強引に説明するなど信用性が非常に薄い証言しか得られない。
 そんな市民良識に照らしても疑問な供述を、殺人という重大な犯罪の立証の基礎にすること自体が、検察の見識を疑う。
 警察が揃えた証拠ならば、やむなく受け入れて起訴している検察官のぜいじゃくな姿さえ浮かび上がる。警察捜査を批判的に捉え、足らざるはこれを指摘して補足させ、違法は違法として見逃さず批判する検察捜査がなければ、かかる「えん罪の構図」はいつまでも残る。
■ 裁判所の事実認定にも変化がある。ひと言で言えば、「裁判員裁判を意識した証拠の見方」である。
 つまり、今までは、検察側提出証拠によって、「有罪も一応説明可能である、有罪と矛盾しない証拠はある」といった程度で、「合理的疑いを超える証明」があるとみていた、といっても過言ではない。
 むろん、個々の裁判官はそんなことはない!と強く否定すると思うが、全般的にみれば、プロの裁判官が長年にわたり蓄積してきた事実認定の水準は、まずこんなものだ。
 が、これでは、市民良識に反する場合を多々含む事となる。「判事さん、それはおかしいでしょ!」と批判されてたじろぐことになりかねない、、、
 そんな場面を、現にいま全国で現役裁判官が経験しつつある。
 09年5月の裁判員裁判実施を前に、模擬裁判が重ねられている。その経験が、事実認定に変化をもたらしているのではないか。「裁判員であれば、こうした証拠をどうみるか」「裁判員であれば、有罪を確認できるか」「裁判員であれば、この疑問を放置して、有罪と宣言するか」、、、、
■ 今回も「一応の有罪証拠」はあるはずだ。にも拘わらず、裁判所は無罪とした。
 事実認定について、市民良識を基準とする「合理的疑いを超える証明」の運用がはじまった、と思う。
 そんなことを考えて、毎日新聞西部本社版08年03月06日(朝刊)25頁に次のようなコメントをだした。
********(引用)***********
 「渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)も『被告が長期にわたり取り調べに対して否認しているのに、同房者には連日のように自白したというのは極めて不自然だ。市民が納得できる証拠がない以上、刑事裁判の鉄則に従い『合理的疑いを超える証明がないのだから無罪』としたのは当然だ』と話す。
 そのうえで『裁判員制度導入を前に、各地で模擬裁判が開かれた影響で『市民ならどう見るか』ということを常に意識しなければならなくなっている。判決はそれを運用した結果だろう』と裁く側の意識の変化を指摘した」。

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2008年03月05日

■仙台筋弛緩剤事件


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□いわゆる仙台筋弛緩剤事件の上告審決定がでた。上告棄却である。かくして、無期懲役の判決が確定することとなった。
 その問題点について、新聞に次のようなコメントを掲載しなかった。

****引用ー河北新報2008年2月28日********
<自白の是認問題残した>
 甲南大法科大学院の渡辺修教授の話 このような重大事件で、最高裁が任意性や信用性に争いがあった自白を有罪証拠の根拠として是認した点は問題を残した。筋弛緩剤の検出が鍵を握る事件だったのに、警察が鑑定資料を全量消費したことを安易に受け入れるべきではなかった。捜査機関は裁判員裁判をにらみ、裁判員が納得できる有罪の証拠を確保する運用を目指すべきだ。

 
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2007年12月07日

■情報公開と司法の介入ー司法消極主義の一側面

■神戸新聞12月4日(夕刊)に「体罰教員の情報公開訴訟/最高裁/判断を二分/開示、同日に非開示も確定 県教委、対応に苦慮」と題する記事が載っている。
 兵庫県の旧国立著名大学教授が、体罰を行った教師の特定が可能な報告書の公開を兵庫県教育委員会に求めたところ、二度にわたりこれを非開示としたので、同教授がそれぞれに対して裁判所に処分取り消し訴訟を提起したという。
 最高裁は、県教委の上告を退け体罰を加えた教職員名などの開示を命じた高裁の判決が確定する一方、同日、同様の事案を争った別の訴訟では、教職員名などは個人情報に当たるとの高裁の判決を是認して教授の上告を棄却する判断も示していたという。
 記事を引用しよう。
****<引用・神戸新聞07年12月4日(夕刊)****
 加害教職員名や校名の開示の是非が争われたが、訴訟Aの高裁判決は「(体罰で教職員が)懲戒処分を受けたことなどが分かると、公務員の立場を離れた個人の評価も低下する」との理由で「個人情報に該当する」と判断、非開示が妥当と結論づけた。
 一方、訴訟Bの高裁判決では「県の諸活動を県民に説明する責務は、違法・不当と評価されるような公務員の情報についても向けられている」と指摘。「懲戒処分を受ける立場に置かれた情報だから非開示というのは県の条例の趣旨に明らかに反する」とした。
**********************************************
■どうみたらいいのか?
 行政への司法の介入の方法は、むずかしい。
 個人対個人の利益対立を解決する通常の民事裁判とは異なる。市民全般、市民社会全体の利益を守り発展させる行政の多様な活動に、1個人が訴訟を提起してこれを変えさせることを求めるとき、それは個人が司法を通じてその個人にとって利益となる固有の行政事務を実現させることとなる。
 それが、行政組織ではなお踏み出せないが、市民全般の利益の実現に当然に明白になる場合であれば格別、公務員とはいえ市民の行政罰の履歴を一般市民に公開にすることが直ちに妥当かどうかは疑問が残る。
 他方、教育現場の適正化という市民一般の利害関心からは、体罰に関する諸情報の公開は不可欠でもある。
 開示を求めて得た情報をなにに利用するのか、その正当性と相当性も考慮するべきであろう。
■「司法消極主義」。
 我が国の戦後憲法のもとでの司法の特徴はここにある。個別具体的な争い毎の妥当な解決の枠内でしか、司法判断はしない。
 違憲判断、行政政策の妥当性判断など立法、行政の権能に委ねるべき事項には、介入を可能な限り回避するのが司法固有の正義に対する市民の信頼を得るもの、とする哲学である。
 これも合理性がある。
 その意味で、最高裁としては、体罰教師の氏名開示を伴う情報公開に関する政策提言を避けて、下級裁判所の個別の判断をそのまま尊重するかたちをとって、問題の解決を事実上行政に委ねた、とみてよい。
■「司法積極主義」
 ただ、21世紀の我が国社会における「司法」の役割が、20世紀型の消極主義に留まるのが妥当かどうか、という大局的法史的観点からの捉え直しは必要だ。そんなことを考えながら、次のコメントを新聞に掲載した。
***<神戸新聞07年12月4日(夕刊)***
▼行政に委ねる趣旨か
 渡辺修・甲南大法科大学院教授の話 体罰の報告書が「個人情報」と「職務上の情報」という両方の性質を持っており、判決が分かれるのはやむを得ない。最高裁は、現段階では介入する必要はないとみたのではないか。今後の情報開示のあり方については行政に委ねる趣旨だろう。


posted by justice_justice at 21:55 | TrackBack(0) | ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2007年10月19日

■長浜園児殺害事件ー「責任能力欠如」


ootsu00.jpg■中日新聞07年10月16日(夕刊)は、「長浜2園児殺害/無期判決/その瞬間 首振る遺族/黒服姿すすり泣き/うつろな視線の被告」と題する記事を載せた(中日新聞07年10月16日、夕刊)。
 滋賀県長浜で、06年2月、鄭永善被告が自分の子供とともに幼稚園に送っていく園児ふたりを刃物で刺し殺したという衝撃的な事件が起きた。事件当日のうちに鄭被告は身柄を確保されている。同年3月には殺人などで起訴される。
 この事件が注目された理由は、まず、幼児を犠牲にした事件であることーこの国がもはや子供達を守れない殺伐とした国に堕落したことをはっきりとさせたこと。次に、いきなりテクニカルなことであるが、公判前整理手続がやや長引いたことである。
 6月12日、大津地裁で公判前整理手続きが始まった。これが終了したのは、12月のことである。第1回公判が、07年2月。それからの審理もそれなりに時間がかかっている。
 この間に特徴的なエピソードがある。2月2日、大津地裁の初公判で、鄭被告は「砂人形を刺した」と述べたと報じられた。また、3月23日、鄭被告が「なあんにもしていない」と繰り返し、被告人質問が30分で打ち切られた。
 8月に公判前整理手続で決定され実施された鑑定の結果について、担当医が証人尋問を受けた。内容は、「鄭被告は統合失調症で、犯行当時、心神耗弱状態だった」とするものであった。
 そして、10月16日、判決公判。裁判所は、検察官の死刑求刑を斥けて、心神耗弱を認め無期懲役を宣告した。
■判決文要旨に拾われている被告の日常生活におけるちぐはぐで、常軌を逸した言動は、確かに統合失調症のものだ。刑法が求める責任能力は、そう高度のレベルを意味しない。 「自分の行なう行為のよし・あしがわかること」
 「よい行いをし、悪い行いを避ける力があること」
この心の力、精神力・判断力・行動統御能力があればいい。それは、例えて言えば、幼稚園の年少さんから年長さんへの成長を終えた辺りの能力でいいことを意味する。
 被告のエピソードは、その心の力が脆弱になっていたことは否定できない。
 刑法が、判断力のある責任のある者が行なう犯罪だからこそ処罰し、判断能力のない者の犯罪には教育を、心の病の人には治療を与えるという法制度を選択している以上、専門医が統合失調症と判断したのに、裁判所が特段の事由もなく勝手にこれに反した判断をすることはできない。
 もっとも、本件で検察官が死刑求刑を前提にしておきながら、自らも鑑定を請求するなりして、裁判所の判断材料を増やしておくべきであった。
 テクニカルなことであるが、公判前整理手続を行ったのに、後に公判審理が始まってから証拠調べ請求を認めたのでは、公判前整理手続を実施する意味がない。だから、法律上「やむを得ない事由」がない限り、検察官はもはや公判審理がはじまってから、「別の専門家の鑑定を請求する」といっても基本的には認められなくなる。
 責任能力を犯罪の要件にすることをやめる。
 これも一つの割り切り方だ。被害のみ重視するものだ。犯罪の主体の属性をまったく考慮しなくてもいい制度、、、、結果責任刑法。だが、今のところ、近現代国家は、こうした刑罰観を取らない。
 その善し悪しは、裁判員裁判が始まったときに、一定の答がでてくるだろう。
 判決の記事について、こんなコメントを出した。
***中日新聞07年10月16日(夕刊)****
 検察も鑑定請求を
 渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)の話 心神耗弱である被告には善悪を判断する能力が備わっているとは言えず、量刑で考慮せざるを得ない。今回の判決は、鑑定結果に沿って判断したと言える。ただ、検察側は公判前整理手続きの段階で鑑定請求していない。死刑求刑事件で被告に責任能力を問おうとするならば、検察側も鑑定請求をするべきだった。その意味では、検察側はもっと慎重であるべきだったのではないか。
****************
posted by justice_justice at 19:51 | TrackBack(0) | ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2007年10月18日

■『僕はパパを殺すことに決めた』ー取材の自由とプロのルール


bokupapa.jpg■朝日新聞07年10月15日(夕刊)は、「逮捕妥当」/「見せしめ」/表現の自由巡り論議/医師宅放火殺人の調書流出」というかなり扇情的な見出しの記事を載せている。
 奈良で高校生が自宅で放火、母親らが死亡した事件に関連して、草薙厚子氏著『僕はパパを殺すことに決めた』のソース元であり、少年の鑑定を担当した医者が秘密漏示罪で逮捕されたのだ。
 ジャーナリストの取材のありかた、報道・公表のありかたも問題だが、鑑定を命じられたプロの医者が、そのジャーナリストに、無警戒に供述調書を開示するなどもっての他だ。
 市民のプライバシーに関する情報など多くの秘匿すべき情報を扱う、プロの最低限のルールも守れていない。だから、国家権力の介入を招いたのだ。
 今回の医師による供述調書の開示、フリージャーナリストの出版公開は、市民の側から見ても、単純にプロの情報管理の自由やジャーナリストの表現の自由への国家の介入という角度でみていて済む問題ではない。
 今回の医師のような立場で、刑事裁判、少年審判には無数のプロがかかわる。彼らが、こんな脇の甘い情報管理しかできないのでは、刑事裁判に否応なくかかわらざるをえない市民のプライバシーは危機に瀕する。
 しかも、国家の側が取調べ権限を発動して、市民から集めた情報が、こんな形で流出することを、捜査機関も、検察官も、裁判所も放置するとすれば、司法に関わる市民のプライバシーを守るべきものはなくなってしまう。そんな司法作用に対する国民の信頼は、大きく揺らぐ。
 さらに、問題の事件の少年だけでなく、おなじ立場にたって少年審判をまつ大勢の少年達のプライバシーも、同じ危機に直面する。
 なのに、これを「ジャーナリズムの取材の自由」を柱にして、国民の知る権利に対する国家の重大な介入であるかのように、批判的にのみみておくことなどできない。
 手元にある本は、装丁はきれいで、読みやすい。ただ、国家権力が取調べで集めた情報を整理しているだけではないか。ジャーナリストとしての批判的な、客観的な、建設的なものはあまり見あたらない。
 そこで、次のようなコメントを掲載した。
**************<コメント>*********
 渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)は「鑑定医は業務上知り得た秘密を取材目的が明らかな人物に無警戒に示していて、明らかに犯罪要件が成立する。逮捕はやむを得ない」との見方を示す。著書に対しては「取材源の秘匿という報道の大原則も尊重せず、ジャーナリストなりの観点も感じられなく、正当な報道とは言えない」と厳しく指摘した。
****朝日新聞07年10月15日(夕刊)*****

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2007年10月04日

■迅速な刑事裁判と「公判前整理手続」ー法曹三者の信頼関係

■昨日の読売新聞夕刊に、「街頭募金詐欺/公判前手続き1年11か月/被害者特定で対立/大阪地裁」と題する記事が載っていた(07年10月3日、大阪読売新聞、夕刊)。公判前整理手続の開始から終了まで、今のところ、「全国最長」だという。
 事件の内容は、街頭募金詐欺だ。難民支援や難病児童などの支援を訴えて集めた街頭募金を着服したものらしい。記事はこう紹介している。
****************<引用>*************** 
 街頭募金を装って約2500万円をだまし取ったなどとして、詐欺罪などに問われた自称NPO団体の実質的代表、Y・S被告(36)の公判が3日、大阪地裁(杉田宗久裁判長)で開かれた。刑事裁判迅速化を目的とした「公判前整理手続き」が全国で2例目に適用されながら、法解釈などを巡って検察、弁護側双方が対立。手続き開始から初公判まで約1年11か月を費やす全国最長の“準備期間”となり、審理の行方が注目される。
 起訴状によると、Y被告はアルバイトを雇って2004年10〜12月、大阪、京都両市内などで、難病の子どもの支援として集めた募金を詐取した。
*************************************
■記事は、この事件でなぜ公判前整理手続が長引いたのか、関係者の取材から次の点を指摘している。

*******<引用>************
 手続きでの主な争点は、被害者の特定だった。
 検察側は募金した被害者のうち9人を特定したが、その他は「多数人」として特定せず、1人当たり1円〜1万円を被害額とした。弁護側は「被害者は約20万人おり、これほど多数を氏名不詳とするのは乱暴過ぎる」と反発、被害額算定の根拠などの釈明を求め、被害者の調書などの開示を請求するなどし結局、公判期日が決まったのは今年9月の21回目の協議だった。
*******************

■記事を読みながら、いろいろと思いを巡らせた。
 第1。詐欺罪で起訴しながら、被害者を特定していない。
 それでは、被告人が、欺罔行為を行い、被害者が騙されて、錯誤に陥って、財産を処分する、という詐欺を構成する事実そのものについて「合理的疑いを超える証明」ができない。何故なら、「不特定多数」の人の心理を合理的に推認できない。
 何故なら、、、「おっ! 可愛い子が募金してるじゃん、何に使うか知らんが、関係ない。ちょっとええ格好見せて、声かけてお茶に誘ってみよう!」と思った通りすがりの若者が500円玉を募金箱に入れた場合、ただちに「詐欺」の被害を受けたとは言えない。
 「今日はついていない。おっ! あそこで募金をやっている。あんなかにはだいぶインチキなのがあるのは知っているし、あいつらもそうかもしれないが、ともかく自分のゲンの悪さを払い落としたい。ちょっと大目に募金箱にいれとこか」と思って1000円を入れた人がいても、詐欺にはならない。
 だから、詐欺罪で起訴するとき、「不特定多数」を相手にしたとしても、起訴できるのは、被害者が特定された範囲に限定せざるを得ない。
 弁護側が、被害者の特定ができなければ防御ができないと主張していたとすれば、それはそれでむしろ当然だ。被害弁償などして、反省の姿勢を示すこともできないではないか。
 第2。裁判所は、これだけ長期にわたり、検察官と被告側の言い分に耳を傾け、同意があった証拠、不同意の証拠、証拠開示に関するやりとりなどなど公判が始まってから行なう証拠調べの争点と証拠を整理していたら、かなりの程度、事件そのもののイメージが具体的につかめているし、実は、一定の「見通し」「見込み」「めど」を立てているはずだ。
 これを「予断」と言い切る必要もないが、証拠調べ前に有罪無罪の判断をほぼつけている、そう疑われやすい手続になってしまっている。
 我が国のプロの裁判官は、予断と偏見にもっとも遠い存在なのだが、裁判員裁判になった場合、これほど事件に関する情報に落差が生じると、裁判員と一緒にする評議は、裁判官の考えを示して、お墨付きをもらうだけの場になりかねない、、、
 同じく、今回の裁判も、裁判官はほぼ有罪か無罪か判断を固めていて、公判廷での証拠調べは「やっぱり自分たちの事前の判断で間違いがなかった」と確認する場になりかねない。
 それでいい、と割り切るのか、裁判の前倒し、密室で安易に心証形成するのを放置する手続、とみるのか、この辺りは難しい。
 第3。公判前整理手続で準備に時間をかけるのはいいのだが、さてさて、検察庁と捜査機関をバックにした検察官と、何人の弁護人がついたのかわからないが、バッチだけが頼りで調査員もいない弁護士が、十分な調査を踏まえて、検察官の開示する証拠の信用性を吟味できるものかどうか、、、
 質の高い弁護を求められる手続であるだけに、体制が整っているのか心配に思う。

■「刑事弁護」。
 国家の品格、文化度、文明度を示すのが、これだ。
 公判前整理手続を伴う我が国の刑事手続が、21世紀の世界で、「司法による正義」を実現していると誇れるものになるのには、実は、法曹三者の深い信頼関係が不可欠だ。
 裁判官も、検察官も、異なるバッチを付けた途端に、敵を見る目でしか弁護士集団をみれないような貧弱な法曹文化では困る。
 国家の品位は、法曹一元の文化が支える。
 
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2007年09月30日

■市民を守る刑事弁護ー国家の品格を維持するプロ達


sunflower.jpg■ 14年前に、朝日新聞が「拘置質問へ弁護士同席/大阪、福岡地裁」と題する記事を載せた(1993年10月23日(朝刊))。以下、引用する。

*****************<引用>**************
 裁判官が容疑者の拘置を決める前に本人の意見を聞く拘置質問の際に、弁護士が立ち会って助言できる機会を認めた刑事手続きが、大阪地裁と福岡地裁小倉支部でとられていたことが、大阪弁護士会の開いたシンポジウムで報告された。弁護人の立ち会いを定めた法律の規定はなく、実際に弁護人が立ち会いを求めて許可された例もほとんどなかった、という。逮捕直後で動揺している容疑者の人権を、捜査段階から保護する試みとして注目される。
 刑事訴訟法は、捜査機関が逮捕した容疑者の拘束を続けるためには、裁判所に拘置請求しなければならないと定めている。
 さらに、拘置決定前に裁判所が容疑者の意見を聴くことを定めているが、弁護人の立ち会いを認めるかどうかは事実上、裁判官の裁量に任されており、拘置質問は裁判官と書記官だけで行われるのが一般的だ。
 大阪地裁は今年六月、窃盗容疑で逮捕された男性の拘置手続きで、弁護人の立ち会いを認めた。弁護人は翌月、起訴後の拘置質問にも立ち会った。男性は弁護人の助言を受けながら質問に答え、裁判官に拘置場所を大阪府警本部の留置所から大阪拘置所に変更するよう求め、認められたという。
 双方に立ち会った下村忠利弁護士は「男性に十分な弁明をするようアドバイスできるなど成果があった」としている。
***************************************

■ 刑事裁判は、国家権力が、「刑罰権」というむき出しの暴力を最後に発動するもっとも野蛮な国家作用だ。
 万が一にも、「被疑者、被告人」という法律上の立場、地位、身分に強制的に置かれる「市民」が「えん罪」であったりしてはならない。
 警察、検察の主たる機能は「被害」の視点から、犯罪の重みと、これに関与した者の悪質さを暴き出すことに置かれてよい。
 他方、「被疑者、被告人」の視点から、事件を見直し、関与の有無と程度を問い、また、「被疑者、被告人」の視点からの「犯罪の軽重」を測定するための材料を提供するのが、刑事弁護人の役割だ。
■ 刑事裁判における正義の実現は、警察、検察、裁判に「刑事弁護」が加わるから均衡が保たれている。
 その「質の高い刑事弁護」を否定することは、国家のむき出しの暴力性を容認することと等しく、市民に、裸で暴力に抵抗することを強いるに等しい。
 法律が枠をはめた刑事裁判の形を前提にしながら、充分に「被疑者、被告人」たる立場にある市民の主張を聞くべき立場にある国家の側に、適切に伝えるには、伝達役が必ず必要だ。
 勾留質問。はじめて裁判官に市民が接する場面で、いうべきこと、いいたいことを堂々と述べることができる力量を市民に期待してはならない。
 法律は、勾留質問に、弁護人の立会を禁ずる規定を置いていない。許すとも書いていない。
 であれば、市民が、プロの助言を求める場に、プロが居るのが原則だ。
 こうした法の不足を補うすぐれた刑事弁護をすこしづつ積み重ねて、21世紀の刑事弁護の質が獲得されてきた。
■ 質の高い刑事弁護を是認できる国家かどうか、これが21世紀の世界のリーダーとなる国家の品格を決める。そして、その国の国民の民度、文化度、正義観のレベルもわかる、、、

 当時、まだ前任校にいたブログ編集者は、上記シンポで次のように発言したと誌上で紹介されている。

**************<引用>*************
 講演した渡辺修・神戸学院大教授(刑事訴訟法)は「容疑者の防御権を保障するうえで弁護人が立ち会う意味は大きい。拘置質問も裁判手続きの一つであり、弁護人の立ち会いが認められるのは当然だが、これまでは捜査段階で弁護人が付くケースそのものが少なかった。今後立ち会いを定着させるためには、当番弁護士制度などを一層充実させることが重要だ」と話している。


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2007年09月27日

■刑事裁判と証拠ー「重厚長大」立証と「軽薄短小」立証のバランス


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■中国新聞の9月25日に、「廿日市新生児殺害/遺体写真/公判で不採用/広島地裁が判断」と題する記事が載っている(07/09/25,朝刊, 25頁)。
 記事を引用すると、次のような裁判の経緯があった。
*****<引用>*****
 廿日市市で五月に起きた新生児殺害事件で殺人罪に問われた女性被告(32)の裁判で、検察官が証拠請求した新生児の受傷写真を、広島地裁がすべて必要性がないとして却下していたことが二十四日、分かった。・・・・審理しているのは五月五日、廿日市市地御前北の市営住宅三階の窓から約七・四メートル下のアスファルト地面に生まれたばかりの女児が落とされ殺害された事件。事件から二日後、母親のパート従業員が逮捕、殺人罪で起訴されている。
 関係者によると、初公判に先立ち七月に開かれた公判前整理手続きで、検察側は女児が搬送先の病院で治療を受ける様子や、頭が変形し顔などに傷を負った女児の全裸の遺体を撮影した写真数枚を証拠請求した。弁護人は同意したが、裁判官は死体検案書や医師の調書などを採用する一方、写真は必要性がないなどとして却下、検察側の異議申し立ても棄却した。
***********************
■ 裁判員裁判法が制定されたり、公判前整理手続が開始される前の時期の立証の特徴をラフに描くと、「重厚長大」立証といっていい。
 捜査段階で、関係者の嘲笑を内容の重複をいとわず何通も作り、写真も同じものをあちらで引用し、こちらでも確認し、、といった形で、幾重にも証拠を重ねて事実を立証する姿勢が、検察官にも弁護人にもみられた。
 これは、これで、慎重な事実認定を支える面もある。
 反面で、審理を長引かせ、論争となるテーマを増やし、他方、事実認定の質をさほど高めない証拠もたくさんあった。
■ 21世紀になって、その刑事裁判は装いを変えつつある。「わかりやすさ」である。市民が理解可能な正義実現のプロセスにすること。
 これに応じて、刑訴規則では、証拠厳選の原則が定められた(第189条の2)。

 証拠調べの請求は、証明すべき事実の立証に必要な 証拠を厳選して、これをしなければならない。

■ この記事で問題となった写真は、いわばあってもいい証拠であるが、なければ困る証拠ではない。
 であれば、ことさら悲惨な状況を残す資料を刑事裁判の記録に綴じ込まなくてもよい。プロの裁判官であれば、他の資料でも傷害の部位程度はわかる。
 他方、仮に弁護人が、有利な情状証拠にしたいのであれば、別途証拠調べ請求をすればよい。その場合には、裁判官も別途考慮したはずだ。

■ むろん、裁判員裁判であれば、予断を生みやすい写真証拠を一律に排除すべきである、といった極論はなりたたない。あくまでもケースバーケースであり、被害態様のリアルな立証が必要な事件では、どんなに残虐なものであっても写真証拠を出すべきだ。
 他方、似たような写真を幾枚も重ねることで、「感情司法」の疑いを招く立証は、検察官も避けるべきである。
 他面で、必要最小限度の証拠しか検察官が出さないことが逆に事件の背景や犯罪を取り巻く人間模様などを薄くしてしまい、事件の真相、妥当な量刑を図る材料が乏しくなることも避けなければならない。
 いわば「軽薄短小」立証も困るのだ。
 当たり前だが、「重厚長大」立証も「軽薄短小」立証も避けて、バランスのとれた証拠構造による真相解明が望ましい。
 その兼ね合いは難しいが、法律家の健全な裁量で市民の納得できる立証を実現すべきである。

■そこで、上記中国新聞には、「予断与える可能性」と題して次のコメントを掲載した。

**************中国新聞07年09月25日(朝刊)****
建物から落としただけの単純な犯行で、事実関係に争いもない。写真を採用せず、他の証拠で対応した裁判官の判断は評価できる。裁判員制度の導入に向け証拠の厳選を確立しようとする姿勢の表れとも言える。生々しい写真は裁判官は見慣れているが、裁判員には予断や偏見を与え量刑を重くする恐れがあり、犯行態様が特定できない場合などを除いては今後も写真は採用すべきでないだろう。
***********************************************


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2007年09月15日

■秋田連続児童殺害事件ー公判前整理手続の意義

■秋田・連続児童殺害初公判が、9月12日(水曜日)に行われた。
 起訴された事件は、06年4月〜5月に起きた。児童連続殺害だ。被告名、畠山鈴香。
 彼女が起訴された事件自体が異様であった。
 最初の犠牲者小学4年生の彩香ちゃんは実の娘だ。しかも、橋の欄干から落として殺害し、さらにその後その娘の友達であり近所にすむ小学1年の男子、豪憲君を自宅に誘い込んで殺害した。
 もっとも、捜査の段取りに疑問が残る。警察はいち早く事故死で処理。後に起訴される実の母親、鈴香被告が「事件だ、犯罪だ」と警察に押しかけていたという。彩香ちゃん殺害事件について、慎重に捜査をすすめていれば、豪憲君が殺されることはなかった、、、
 さらに、起訴後の公判前整理手続に長期間を要した点でも注目に値する。
■事件は、7月17日に豪憲君殺人で起訴、8月9日に彩香ちゃん殺人でも起訴。同17日、秋田地裁が公判前整理手続きの適用を決定して、翌2月7日から公判前整理手続が開示され、8月29日に終了している。
 起訴から1年以上かかって、初公判を迎えることとなった。
 確かに、公判前整理手続は長引いたが、裁判の争点が絞られたので迅速的確な審理が見込まれる。
 鈴鹿被告が結果として子供ふたりが死んだ事実に関与していることについては、大筋では争いはない。むし、「心の闇」の評価が裁判では問題になる。
■そこで、新聞には次のコメントを寄せた。
*********<引用>*************
 ー河北新報07年9月13日ー
<心の闇の評価問題/甲南大法科大学院・渡辺修教授(刑事訴訟法)>
 公判前手続きは長引いたが、争点は絞られ、迅速で的確な審理が見込まれる。裁判では外形的事実の争い以上に、被告人の「心の闇」の評価が大きな問題となる。殺意の有無と、刑事責任を問えるかどうかについては、法律や精神医学の専門家の判断に任せるだけではなく、市民を納得させられる主張かどうかが問われる。子育ての困難さや、子どもを守れない地域の弱さなど、現代社会の病理も浮き彫りになるだろう。

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2007年07月14日

■「オウム真理教事件」−21世紀への予言ー

■参議院選挙、年金問題などなどが世論の関心を集める中、「オウム中川被告、2審も死刑=サリン生成など−教団事件の控訴審終結・東京高裁 (時事通信)」、こんなタイトルのネット記事が配信された(時事通信社、2007年7月13日15時7分発)。こんな記事内容だ。
********<引用>***********。
 地下鉄、松本両サリン事件や坂本堤弁護士一家殺害など11事件で殺人罪などに問われ、1審で死刑とされたオウム真理教元幹部中川智正被告(44)の控訴審判決公判が13日、東京高裁で開かれ、植村立郎裁判長は「人倫に背く重大犯罪で、豊富な医学知識を犯行に悪用した」と述べ、1審東京地裁の死刑判決を支持し、弁護側の控訴を棄却した。
**************************
■「オウム真理教事件」。この言葉自体が、死語になりつつある。その後世界中で勃発する宗教が拘わるテロ事件史のひとこまになりつつある。しかも国家体制を揺るがし、世界の政治経済の構図に影響をあたえることのない事件であった。あくまで平和国家日本の中のローカルな異端児の反社会的逸脱にとどまった面もある。
 中川智正。フリー百科事典『ウィキペディア』の紹介では、1962年10月25日生まれ。「岡山県出身。ホーリーネームはヴァジラ・ティッサ。麻原彰晃の主治医で、教団が1993年に省庁制を採用すると、法皇内庁長官になった。岡山県立岡山朝日高等学校、京都府立医科大学医学部医学科卒業。1988年2月にオウムに入信。出家してすぐに、坂本堤弁護士一家殺害事件の実行犯の一人となる」。
 本来なら、高齢化社会の医療を支える医師の一人として活躍しているはずであろうのに、いまだ東京拘置所に勾留されたまま、死刑を争っている。
 上記の配信記事によると、「教団をめぐる一連の事件では12人の裁判が継続中で、中川被告を除き死刑判決を受けた10人と、無期懲役とされた1人が上告中。この日の判決でオウム事件の控訴審はすべて終結した」という。
 時代の「終わり」とは受け取ることのできない記事だ。むしろ、この事件が暗示した「暗黒の時代」への引き継ぎ、それが終わっただけではないか。
■オウム真理教事件が暗示するものーーー教祖と信者、権威と支配というあらたな人間関係。世俗社会で「個人」が破壊されていくことへの不安と恐怖。その脱出場所としての「宗教」という別な「組織」。組織の論理のための犯罪、まじめな宗教活動の一環としていわば世俗の残虐非道な行為を平然と行なう感覚の蔓延。
 つまり、近代科学、合理主義、民主主義、自由主義、対価交換、、、など近代社会を支えた価値観が、くずれつつある中、これに代わるなにものかを暗中模索する個々人がとる様々な心理現象、そのひとつがオウム真理教の強大化ではなかったか。
■「幻滅の時代」。21世紀の少なくとも日本は、こうした精神風土が基本になっている。そこに広がる不安を、宗教がとりこむことは容易だ。その宗教が、病理化しやすいことも、歴史が語る。そこに第2の地下鉄サリン事件の芽が宿る。社会の健全さ、前向きさ、発展性、希望、展望、、、こんな一群の言葉で語ることのできる精神風土を復活させなければなるまい。
○写真は麻原彰晃「生死を超える」(1992年、オウム出版)より引用。

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2007年07月12日

■無罪判決再論ー市民の良識、裁判官の非常識

■07年7月9日に、次の記事が朝日新聞(朝刊)に掲載された。
 「無罪急増、証拠に厳格 裁判員制を意識 
  昨年126人、10年で倍」
 内容を少し引用しよう。
*******<記事引用>*********
 刑事裁判で無罪判決が急増している。最高裁によると、昨年は全国各地の裁判所で計126人(速報値)に無罪が言い渡されており、10年前の2倍以上にのぼる。市民が裁判官とともに重大事件の審理にあたる裁判員制度のスタートまであと2年。「だれもが納得できる裁判員裁判に向けて、裁判官が証拠をより厳しく評価するようになった表れだ」との見方が出ている。一方、検察内部には「捜査能力の低下」を懸念する声もある。
****************************


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■ 刑事手続全体を通じて、「真相解明・厳正処罰」が実現されることが望ましいのだが、こうした記事をみるとき、もっとも懸念するのが、「自白中心捜査」という日本の風土である。
 「恐れ入りました。すべて申し上げます、、、、」
 と桜吹雪の金さん、遠山奉行の前にへいつくばって罪を認める姿、、、それとどこか重なる今の日本の取調べの状況。しかも、金さんは、現に犯行を確認している。真相を知っている。ここが、今の取調べとの決定的な違いだ。
 「見込み」。
 これにそって自白を「作る」。これが現代版の取調べの通常といっていい。犯人が罪を認めてすべて自白する場合でも、彼のことば通りには調書にしない。必ず警察文法、警察表現に置き換える。そして、くろを一層黒く描く。同時に、必ず、「反省悔悟」の一文を入れる。
 否認事件では、みるも無惨なことになるー捜査を通じて、心から反省悔悟している犯人が、いよいよ裁判官の前でお裁きをうける段になった途端に、反省をすて、悔悟の念もわすれて、「俺は知らん、私はやっていない」と不埒にも否認に転ずる、、、
 そんな姿をみている裁判官たちは、数十年にわたり、取調べのありかたに問題があるから、これを抜本的に改革すること、要するに、可視化すること、という司法積極主義の姿勢をみせることはついにない。
 「公判廷で、自分の目の前で、犯行を否認する被告人は信用できない。密室で誰にもみせない場で、警察官に囲まれて述べた白状こそ信用できる」、これが大局的にみて、我が国裁判を裏付ける「価値観」である。
■「自白中心捜査」は、被害者の立場を台無しにするものでもある。結局、後に裁判官が無罪と判断せざるを得ない場合、事件は闇につつまれたままだ。警察は、再捜査はしない。捜査の過程で、警察の見込みにそって犯人検挙に利用された被害者は、結局、その被害感情の救済をはかることはできない。
 取調べの可視化は被害者こそ求めるべき重要な課題だ。
■捜査の金属疲労。
 今、こんな感想をもっている。とりあえず自白させる、以後、自白に自白を重ねる。犯行再現も犯行現場にはいかない、面倒で手間がかかるから、、、警察道場で「調書通りのジェスチャーをしろ」と指示して写真をとっておしまい。自白の後に定型文として、「反省してます、悪かったです」と加えることにする、そう挿入することを被疑者に無理にでもしぶしぶでも納得させる強引な技法はみについているが、客観証拠を地道にあつめて被害供述、被疑者供述を多面的に分析評価する緻密な捜査力は弱体化している、、、
■裁判員裁判が始まる。これは、とりあえず、裁判の場の金属疲労を是正する役割は果たす。現に、裁判官たちは、証拠をいままで培ってきた見方ーおおきくみると、捜査情報を信頼するという価値観の見直しを迫られている。検察官の提出した証拠を材料にして、上手に有罪を説明する作文力、、、これが裁判官の能力と評価されはじめたことが、金属疲労の原因だ。それは裁判員が入ることで治る。その先取りが始まっている。これが、冒頭の記事の背景にあるものではないか。
 記事をさらに一部引用しよう。上記の経緯を示すエピソードだ。
*************<記事引用>***********
 ○調書採用せず
 住宅火災の公判では、放火を認めたとされる男性(33)の捜査段階の供述をめぐり、裁判長が「刑事は勘だけに頼って、取り調べ中に怒鳴り、被告の言い分を聞かなかった」として強引な「自白」を認定し、調書を証拠として採用しないという異例の決定をした。判決では、「電気コードの故障による出火の可能性も否定できない。物証を軽視した悪(あ)しき捜査の典型だ」とまで批判した。
******************************
■そこで、司法記者の取材に応える形で、次のようなコメントを掲載した。
*********<記事引用>**************
 刑事裁判に詳しい渡辺修・甲南大法科大学院教授は、09年5月までに始まる裁判員制度を見据え、証拠を評価する裁判官の目が厳しくなったとみる。「模擬裁判などを通じ、裁判官は市民が十分納得できるだけの証拠がそろわないと有罪を出しにくいと感じているようだ。一定の心証を得て、プロ感覚で判断してきた従来の姿勢は変わりつつある」
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posted by justice_justice at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2007年06月23日

■保釈の運用ー「人質司法」の脱却

■「保釈」。
 これは、被告人にとっていわば死活問題だ。そして我が国刑事司法は、被疑者段階で勾留された事件では、なかなか保釈が認められないのが実情であった。 しかし、それでは、裁判員裁判を迎えたとき、防御面でも著しい制約が生じる。そうでなくても、我が国の通常の市民生活を基準にしたとき、「まあ、逃げないだろう」「まあ、罪証隠滅などえげつないことはしないだろう」、そんな事件でも、裁判官は「念のため勾留を続ける」文化が続いていた。
■ 「司法改革」。
 最近、刑事手続にいろいろなトレンドの変化がある。全体として大局的にみれば、司法改革のよき影響であろう。
 そのひとつが「保釈」の緩和傾向だ。
 そう思っているとき、福岡の読売新聞記者から次のエピソードを聞いた(07年6月22日西武読売(朝刊)掲載記事)。
*************<記事引用>*****************
 幼児3人が犠牲になった福岡市東区の飲酒運転追突事故で、危険運転致死傷罪と道交法違反(ひき逃げ)に問われた同市東区奈多3、元市職員今林大(ふとし)被告(22)が保釈された。今林被告は同罪を否認しており、3人死亡の重大事故だけに従来であれば保釈は難しいケース。2年後の裁判員制度の導入をにらんだ対応と言えそうだ。
 今林被告は12日の初公判で「アルコールの影響で正常な運転が困難だった点は否認します」と述べた。弁護側は同日、保釈を申請。福岡地裁(川口宰護裁判長)が20日に保釈を決定したため、福岡地検は「証拠隠滅、逃亡の恐れがある」などとして抗告を申し立てたが、福岡高裁は棄却した。今林被告は保釈保証金300万円を納付、即日保釈された。
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■ この裁判は、公判整理手続を踏まえているから、集中審理になる。否認事件であれば、綿密な打合せを被告人と弁護人で必要とする。そうであれば、拘置所に勾留されたままでは、十分な時間がとれない。
■ 「逃げない被告人を、拘置所につないでおく」、、、裁く立場だけから市民を見ず、裁かれる市民の視線でも考える裁判官がふえてほしいと思う。そうでなければ、その市民が裁判官とともに裁判をする時代が来たとき、市民良識とプロの非常識が対立して折角の裁判員裁判制度が台無しになりかねない。
■ もっとも、被害感情を考えると躊躇する思いもある。特に幼い子供達が犠牲になった事件であっただけに、内心では「社会に出すな!」という思いも強い。
 しかし、被告人にも裁判には十分準備をする機会をもたせることが、真相解明と事案に適切な量刑の実現につながる。
 「人質司法」によるえん罪を防ぐ点では、被害者たる市民もこれを理解すべきであろう。そして、これと別に、被害者参加によって堂々と刑事裁判の場で、被告人の犯罪の悪質性を明らかにすべきだろう。
■ 新聞には、こんなコメントを掲載してもらった。
***************<引用>**************
 渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)は「裁判所は集中審理に備え、被告人と弁護人に準備を十分にさせるべきだと判断した可能性がある」と分析。「最近は強姦(ごうかん)罪に問われた被告の保釈を認めるケースもあり、司法改革の影響で保釈の運用を見直す傾向が表れている」と言う(前掲読売新聞)。

posted by justice_justice at 12:47| Comment(9) | TrackBack(0) | ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2007年06月17日

■豊中焼肉店主射殺事件ー続報

■ すでに2度とりあげた「豊中焼き肉店主射殺事件」について、新聞報道の詳細が明らかになったので、資料として引用しておく
****************<以下、引用>**************
焼き肉店主射殺 有罪破棄、差し戻し 大阪高裁 「供述に信用性ない」
ー07/06/16,産経新聞(大阪朝刊)28頁ー
 大阪府豊中市で平成15年、焼き肉店経営の岡森信也さん=当時(28)=が射殺された事件で、強盗殺人などの罪に問われた元同店従業員、浅田和弘被告(31)の控訴審判決公判が15日、大阪高裁で開かれた。陶山博生裁判長は「関係者の供述は信用性がなく、審理が尽くされていない」などとして、求刑通り無期懲役とした1審・大阪地裁判決を破棄、審理を同地裁に差し戻した。
 この事件をめぐっては、同高裁が4月、浅田被告に拳銃を譲り渡したとして銃刀法違反などの罪に問われた元暴力団組員、酒井強被告(39)=上告中=について、アリバイの成立を認めて無罪を言い渡している。
 陶山裁判長は判決理由で、酒井被告のアリバイを同じく認定したうえで、1審判決が有罪認定の主な根拠とした拳銃の調達を手配したとされる知人2人の供述について、「変遷があるうえ、お互い食い違いがある」と信用性を否定した。
 さらに、浅田被告の知人への「犯行告白」を検討。「犯人性を疑わせる」としながらも、拳銃などの物証が一切発見されていないことから、「ほかの関係者も証人尋問すべきだった。有罪、無罪を判断するには審理は不十分」と結論づけた。
 1審判決では、浅田被告は岡森さんに対して待遇などに不満を募らせ、殺害を計画。15年11月26日未明、豊中市の路上で拳銃を2発発射して殺害し、現金50万円などを奪ったと認定された。
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posted by justice_justice at 08:10| Comment(2) | TrackBack(0) | ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする

2007年05月24日

■無罪判決の背景ー裁判員裁判

■先日、産経新聞(朝刊)(07年5月21日)に「目立つ「無罪」/証拠評価厳しく/「状況」・自白…偏重認めず」と題する記事が載った。冒頭を引用すると、、、
 「刑事裁判で無罪判決が目立っている。12人に一斉無罪が宣告された鹿児島の選挙違反事件で明らかになった警察・検察のずさんな捜査はともかく、目を引くのは、「証拠」に対する裁判所の厳しい評価だ。同じ証拠でも1、2審で評価が正反対となり、控訴審で逆転有罪となったヤミ献金事件の元卒房長卒、村岡兼造被告(75)のように、「同じ証拠でも光の当て方によって違う判断が出る」(刑事裁判卒OB)ケースも見られる。証拠評価の厳格化に、裁判員制度の導入との関連を指摘する法曹界の見方も出ている。」
■裁判員裁判を視野に入れて証拠評価のあり方を自己点検する姿勢を裁判所は持ち始めている、ブログ主宰者もこのように受けとめている。
 それこそ裁判員裁判制度導入のもっとも重要な効果である。
 アメリカ型陪審員でもなければ、ドイツ、フランス方参審員でもない、日本独自の裁判員裁判のメリットは、プロのみが証拠をみて有罪を説明する司法ー「有罪説明司法」ではなく、社会良識の平明な目で、証拠を見る司法に姿勢を正すこと、そうしてえん罪を防ぐことにある。
■裁判員裁判を意識する証拠評価。これは、現に模擬裁判を担当している地裁レベルだけでなく、控訴審レベルにも及びつつある。だから、控訴審での逆転無罪判決も珍しくなくなっている。
 そうであれば、次になすべきことは、そうした立証構造の評価のしかたが変化するのに対応した、捜査のありかたの是正だろう。
 とくに、捜査機関のストーリーを押しつけて、署名指印をさせた調書が真相を語るものであると法曹三者で取り扱う茶番劇はぜひともやめるべきだ。
 歴史的汚点として、被疑者取調べが受けとめられることのないよう、迅速に「可視化」原理の導入ー要するに、ソニーかパナ、キャノン、どこかの会社の家庭用ビデオカメラでもいいから取調室に入れよ、ということだ。
■ 先の記事について、次のコメントを寄せた。
****産経新聞07年5月21日(朝刊)****
「市民、理解できるか」裁判員制度を意識?
 目立つ無罪判決に、平成21年5月までの導入が予定される裁判員制度との関連を指摘する声がある。裁判員になる可能性のある一般市民に、「客観的な証拠」の重要性を認識してもらう▽裁判所が、一般市民のレベルで有罪を合理的に説明できるかどうか、意識を変えてきた−というものだ。
 甲南大法科大学院の渡辺修教授(刑事訴訟法)は「これまではプロ裁判卒が、警察・検察が提出した証拠で一応の『有罪』を説明できる程度の証拠があれば、プロ同士の判断として有罪を取っていた。しかし、裁判員裁判が始まると、一般市民の良識から見て合理的な説明ができなければ、無罪とせざるを得なくなる」と指摘する。
 裁判所は、現在進行中の裁判員裁判の模擬裁判などを通じてこの流れを先取りしている−と、渡辺教授はみる。




posted by justice_justice at 07:50| Comment(1) | TrackBack(0) | ■裁判ー起訴された事件 | 更新情報をチェックする
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