2014年01月29日

■「免訴」−手続を打ち切る裁判と検察審査会の起訴強制(終わり)

■「(壁を越えて 歩道橋事故・強制起訴判決:下)遺族活動、「時効」動かす【大阪】」
朝日新聞2013/02/18(朝刊)

JR朝霧駅東側にある歩道橋。そこで,2001年,21世紀に入った歳,明石市主催の夏祭りで群衆雪崩が起きた。小さな子ども達が犠牲になった。かれらの楽しみのために,開かれた夏祭りであり,花火大会であったのに。警備のプロが居た。駅北側のバスロータリーに機動隊の部隊がいた。署長,副署長あるいは現場の責任者である地域官が,
 「すまん,しばらく,歩道橋の通りをよくするから,規制線をはってくれ。
  いったん入場者を駅北側方向に大きく北上させて迂回させる。それから,歩道橋を  中央で分けて一方通行にする。橋上が込みすぎないように流入規制をする。」
 こんな素人でも思いつく規制をすれば,なんというとこもなくスムーズな人の流れができた。むろん,3名ほど警察官を歩道橋南側に配置して,滞留をさせないようにすればよい。
 ルミナリエ警備で兵庫県警はこの程度の雑踏規制はお手の物なのに,,,。
 それだけに,署長,副署長,地域官と揃っていながら,歩道橋に人がつまる状況を放置したことは,あきらかに警備の手抜きと批判するべきである。お粗末すぎる。
 その事件を,公判廷に持ち出すのに,法改正をまたいで長い年月がかかった。その一端を新聞がドキュメント風に追った。
それが表題の記事だ。

***引用***
 降り続いていた雨がやんだ。事故からちょうど5年後の2006年7月21日。業務上過失致死傷罪の公訴時効が成立するとされた午前0時、神戸市垂水区の下村誠治さん(54)は現場で犠牲者11人の慰霊碑に手を合わせ、2歳で逝った次男智仁(ともひと)ちゃんにわびた。
 「法廷に持ち込めなかった。力不足で、ごめんな」
 事故の遺族は、神戸地検が元明石署長(故人)と元副署長を嫌疑不十分で不起訴としたため、検察審査会に申し立てた。検審は04年4月と05年12月の2度、「起訴相当」と議決。地検が起訴した元地域官の裁判で神戸地裁も「2人が機動隊に出動を命じ、強制的な規制をしていれば、事故を防げた」と指摘した。
 06年3月、下村さんらは最高検に起訴を求める要望書を出すため上京した。しかし事務官は待合室で立ったまま要望書の提出を求め、遺族の発言をメモすらしない。当時の検事総長は「『被害者とともに泣く検察』という言葉があるが、本当に泣いてきたのかとの声もある」と陳謝したが、6月の神戸地検の3度目の処分はまた不起訴だった。
 やりきれなさを募らせる下村さんだったが、知人から思わぬ助言を受けた。
 「刑事訴訟法によると、共犯者の裁判中は時効が停止するようだ」
 保険代理店の仕事の合間や帰宅後に、法律書を読み込んだ。学生時代に学んだ渡辺修・甲南大法科大学院教授(刑事訴訟法)にも相談。裁判中だった元地域官との共犯関係が証明できれば、時効は完成していないことになる、と教えられた。「可能性はまだある。やれることはやろう」。遺族たちは、動き出した。
 ●全国初の適用
 09年5月。司法制度改革の一環で、検察が不起訴処分にしても、検審が2度続けて「起訴すべきだ」と議決すれば、必ず起訴される制度が始まった。遺族は再び審査を申し立てた。市民11人でつくる検審は「元副署長と元地域官は共犯と言える」と認め、全国初の強制起訴が決まった。渡辺教授は「市民の力が発揮された裁判」と後押しする。
 9歳の娘と7歳の息子を亡くした明石市の有馬正春さん(53)は愛する者を守れなかった自責の念に苦しんだ。「これだけの事故が起きて、どこに責任があるのかという話。納得のいく起訴をしてほしかった」
 当時の検察幹部も「あれだけの事故で、誰の責任も問わないわけにはいかなかった」と回顧する。ただ、「我々は刑事責任を問えるか問えないかの一点で判断する。元副署長らは、問えないと判断した」。
 元副署長の弁護側は共犯関係を否定し、時効が成立したとして裁判を打ち切る免訴を主張している。
 ●元副署長が涙
 昨年1月に始まった公判では、被害者参加制度を使い、遺族が直接裁判にかかわった。7月の被告人質問。詰め寄る遺族の前で、榊和晄(さかきかずあき)・元副署長(66)が涙ぐむ一幕があった。
 「私にも小さい孫がいます。ご遺族の心中を察する時に、悔やみきれない悔しさ、わびしさに包まれているのかと、申し訳ない思いでやってきました」
 1969年に警察官に。各地の警察署や自動車警ら隊などを経て事故前年に明石署副署長に就いた。事故後の05年に辞職。大手小売会社に再就職したが、強制起訴後に退職した。高血圧と糖尿病を患い、通院しながら投薬治療を続ける。
 質問に立ったのは下村さんだ。「どうして遺族と会わなかったのか」「副署長としてやるべきこととは」。無罪主張には到底、納得できない。けれど質問を直接ぶつけるうちに、複雑な思いにとらわれた。
 元副署長は言った。「私は小さな子どもが好きで、智仁ちゃんがどんな目をしていたんだろうな、と思います。『わしらの気持ちが分かるか』と言われるかもしれませんが、私なりに悩み、苦しんできました」
 下村さんは、用意していた質問を途中でやめた。
 「目と目を合わせてうちの子の名前を言ってくれた。気持ちは受け取れた」
 事故から11年。初めて、元副署長と向き合えた。
******

 下村さんとは勉強会でも御一緒している。ブログ編者も折ある毎に歩道橋に足を運んでいる。いろいろな思いと重なる事件だ。
 そして,検審起訴強制第1号。「市民主義」の時代の幕開けとなったことも確かだ。
 時代を画する事件であった。
posted by justice_justice at 07:16 | TrackBack(0) | ■(ケース)明石歩道橋事件 | 更新情報をチェックする

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