2013年01月03日

■尼崎連続不審死事件(4)ー「幸せ」否定観/「無縁社会」「孤死社会」の結末/「衰退国家」の「滅亡の哲学」

■1:「滅びの哲学」。
 こんないやなことばが、この事件の記事を読む度に頭をよぎる。
 かつてのオウム真理教をめぐる社会現象をひと言で言えば、”救済を急ぎすぎた歪み”が逸脱を生んだ。が、今回の事件の思想的なひもときができない。肝心の主犯格が自殺した。そんななかで、次の記事が参考になる。
*「昔の瑠衣ちゃんに戻って/尼崎連続変死、娘2人が被害者と容疑者【大阪】」
 朝日新聞2012/12/19(夕刊)
 「6人の遺体が見つかった連続変死事件で、遺族の一人、兵庫県尼崎市のT・Aさん(60)が朝日新聞の取材に応じた。長女と実兄、義母が遺体で見つかり、身を隠した元妻は病死。次女は、自殺したS(・・・)M子容疑者(64)らとともに殺人容疑などで逮捕された。『お父さんも何でもするから、早く立ち直ってほしい』と呼びかけた」。
 彼は、主犯格の精神構造をこのように分析する。
「Sは、頼ってきた人間は懐柔するが、敵対する人間はとことん徹底的にやり尽くす。常に誰かを痛めつけている。
 いま思うと、Sは人の幸せを否定するんですよ。社会的に、いいとされていることを否定したがっていた。RIの成績がいいと聞くと学校を辞めさせたり、おばあちゃん(・・・)が高松の家に贈ってくれた花壇の花を全部切ったり。何でそんなことをするのか、理解できない。」 
■2:「幸せ」否定観。
 おそるべき精神構造だ。
 だが、21世紀に入り、国家日本の、経済、外交、人口、教育、福祉、エネルギーなどなどいろいろな面での「破綻」が目立つ。
 「衰退」、このことばがつきまとう。
 そうした国家社会の精神構造を語ることばこそ「幸せ」否定観ではないか。「衰退」国家の「滅びの哲学」。それが蔓延る社会構造、、、。そして、そうした異様な集団生活が日常の中に溶け込んでしまって、浮かび上がらせることのできない、脆弱な社会基盤。社会の歪みを、社会自体の自浄力では正すことがもはやできない。社会の軋みが、社会の破壊に至るまで放置される状態。
 その病理は、個人を労働力のユニットとして扱い、家族・家庭をそうしたユニットを生み出す自動販売機のように扱ってきた戦後日本の資本主義の精神に求めるべきだろう。「独占資本主義」を巨大化させる一方、そこに蓄積された富を社会に還元して、個人・夫婦・家庭・地域・自治体の「豊かさ」を創造するためには投資しなかったツケが今回ってきた。もはや質の高い労働の担い手となる個人を拡大再生産する力を、日本の社会は失いつつある。
 「無縁社会」と「孤死」がそのシンボル的な表現だ。その狭間で、異様な人間関係が形成されていく。社会の「癌」に例えてもよい。「幸せ」を否定する哲学。「健全」であること自体を嫌悪する情緒。そこに、犯罪が生まれた今回の事件を甘くはみないほうがよい。
 類似の事態が、実は、日本のそこここで進行しているか、進行しようとしていることを予想しなければならない。
 「終末」に向かう社会の崩壊現象の一コマとみておくべきだ。
■3:「正義、建設、勤労、努力、希望、幸福、責任」
 健全であることを揶揄する文化が蔓延り始めたのはいつ頃からか。それを払拭することが、不可欠だ。今、価値観の立て直しをまともに考えて、実践しなければ、崩壊を食い止められない。
 
 尼崎連続不審死事件は、日本社会の根深い病根につながっている。
 それを、じっくりと見極めることが「真相解明」の土台となる。
posted by justice_justice at 06:43 | TrackBack(0) | ■(ケース)尼崎連続変死事件 | 更新情報をチェックする

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