2012年01月22日

JR西日本もと社長「無罪」−巨神兵の笑い

 JR西日本の元社長に、無罪判決が宣告された。やむをえない結論と思う。「業務上過失致死傷罪」。」刑法211条1項は、「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする」と定める。
 言葉だけみれば、宝塚線のカーブ工事実施時の鉄道本部長でなんとなく安全な運行のできる工事を計画して設計して施工させて運行を監督するような責任あるポジッションに居たから、その後の事故について責任を負わせてもよいような気もする。
 しかし、今の刑法の構造、原理を考えておこう。
 まず、「自然人」が犯罪の主体だ。但し、まさにこの条文が予定しているように、「業務上」人の生命や身体に危険を及ぼす社会活動をするのであれば、そんな事故で他人に迷惑をかけることのないように細心の注意を払って欲しい。注意して事故にならないことを社会が期待していい範囲がある。その範囲のことは、まさに注意して事故にならなにようにするべきだ。
 不注意で事故が起こることを予想せず、これを防ぐ行動をしないことーーー車の運転手が、携帯電話に気を取られていて、赤信号を見逃して、歩道を歩く人をはね飛ばすこと」ーーこれは、その人の責任だ。重い刑事責任を問うべきだ。
 しかし。
 人の生命、身体の安全に危害を加える仕事に携わっているからと行って、「もしかしたら、なんらかの事故が、なんらかの形で、いつかは起きる」という漠然とした危険の不安があるからといって、この不安を完全に除去しないのに、そうした業務をしてはならない、、、これは、今の社会が求めるものではない。
 他方、実は、社会公共のサービスは、企業が提供するのが資本主義社会の基本となっている。個人の集合ではあっても、巨大な「組織」としての企業体が、一定の意思をもって行動する、、、その結果、事故が起きる。
 刑法は、自然人の能力を前提にする。一定の職業などにあれば、業務特有のプロフェッショナルとしての責任を加える。しかし、これとても、自然人の能力を超えることはできない。「予知能力」を期待することは不可能だ。「個人としての予見」と、神仏の世界に属する「予知」を混同することはできない。何故なら、刑罰を科すからだ。その個人の人格と生活を国家が刑罰でぶちこわすことになる。それには、それなりの条件が要る。
 基本は、「故意の犯罪」である。
 これを超えるとき、「過失」と評価できる規範的な心理状態に限り処罰する。しかも、どんな犯罪でも過失を処罰するものではない。「過失窃盗罪」の規定は現にない。「過失住居侵入」も犯罪にしていない。
 では、過失とは?
 結局、自然人が職業上必要な知見に基づく洞察力を含めても常識的に予見できる範囲内の危険を防ぐこと、、、これに留めざるを得ない。
 特定のカーブを急カーブにしたこと。数年の間にダイヤが修正されること。運転手があるときオーバーランをすること、それを気にしてそのカーブで速度超過のまま運転すること、ダイヤ全体の運行管理責任者もオーバーランを知った駅の駅長も、そして、同乗する車掌もなんら運転手に「気を取られないように注意するように!」と声をかけることもしないこと、運転手がいわゆる「日勤」教育をいやがって車掌に見逃すように相談すること、、、等などを予想して、その結果、速度超過による電車転覆が起きる危険性を、数年前から予想できた、、、等と非常識なことは言えないし、こんなことを根拠に「刑罰」を科すという非常識もできない。
 無罪はやむを得ない。

 処罰されるべきは、組織体としてのJR西日本なのだ。
 しかし、これを有効適切に「処罰」する方法が、ない。
 会社解散命令、巨額罰金、監視監査強化命令と監視体制の司法命令、、、、、
 そのさらなる前提として、秒単位の精密さで、電車が到着するのが当たり前のサービスを社会が諦めることができるのかも問われる。「スロー社会、スロービジネス」に耐えられるかどうか、、、、。
 
 今回の無罪判決は、事件の終わりではなく、「終わり」に向かう「始め」にすぎない。
 「スロー社会」。そんな言葉も流行る中、社会公共サービスのあり方も問われることとなる。

「巨神兵」が生き延び、個人が破壊される、、、そんな時代の刑法のあり方を抜本的に考え直すべきだろう。
posted by justice_justice at 06:46 | TrackBack(0) | ■(ケース)JR福知山線事故■ | 更新情報をチェックする

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