2010年03月29日

■JR西日本の福知山線事故ー「組織過失」と「個人過失」

■JR福知山線脱線事故。
 兵庫県尼崎市のJR福知山線で2005年4月25日午前9時18分で事故が起きた。
 快速電車が制限速度70キロの右カーブに時速約116キロで進入して脱線。乗客106人と運転士が死亡した。他に485人が重軽傷を負った。
 事故の原因は複合的であったとみてよい。なによりも運転士がブレーキをかけるのが遅れた人為的なミスが大きい。また、現場には旧型の自動列車停止装置(ATS)が設置されていたが、これを新型に置き換えていれば事故が防げた可能性が指摘されている。運転士の不注意の原因として、ささいな失敗にも加重・過剰な指導を行う「懲罰的な日勤教育」があるとも言われた。
 これについて、検察審査会は、1992年〜1997年の元社長、その後98年3月までの元社長、それを引き継いだ2003年までの元社長の3人について、二度目の起訴相当を決める判断をした。これは、「起訴議決」となり、法的には裁判所に検察官役弁護士を任命して公訴提起を行わせる義務を発生させる。一般には、公訴時効が今年4月25日に成立することとなろう。そう解釈するのであれば、裁判所は、急いで指定弁護士を任命し、公訴提起の準備をさせなければならない。
 指定弁護士は、場合によって、とりあえず予見可能性、結果回避に関する注意義務の大枠をまとめて公訴提起を急ぎ、起訴後補充捜査を行って、公判前整理手続までに訴因変更を行うこととなろう。
 もっとも、今回の事件で問うべきは「組織過失」である。先に起訴された元社長も含めた歴代社長の「共同過失」とみる余地もあるが、その場合には、すでに元社長一人が起訴されているので、公訴時効は停止しているとみてもよい。この場合、公訴提起までまだ時間がある。ただし、故意犯の共同正犯はありえるが、過失犯の共同正犯は認めない、という考え方が学界でも有力だ。過失共同正犯で起訴した例もあまりない。リスクは避けるべきだろう。

■「組織過失」と「個人過失」
 大規模事故が起きたとき、犠牲になったひとりひとりの市民の怒りは大きい。
 「組織」が相手であるとき、誰に怒りをぶつけられるかさえわからなくなるのもその一因だ。
 ただ、残念なことに、資本主義・自由主義・世界主義の原理で社会が動いている。巨大「組織」は、それ自体の論理と行動ルールに従って動く。その歯車になっている個々の人間の個性は「組織」の中に埋没する。
 確かに、事故原因に責任があるとみてよい立場、地位、業務にある「個人」がいるときもある。
 今回の事件では、死亡した運転手がそうだ。
 では、あの態様の事故と被害を予見すべきであり、予見可能であり、さらにあのような事故があのように発生することを回避するべきであるし、その権限など回避方法をとることが事実上も法令上も可能であった「個人」は、他にいるか、、、、、、、 
 個別的、具体的な予見可能性と結果回避可能性によって、「過失」の限界を設定する。これが、刑罰権の限度だ。この枠内であれば、故意犯と同等に「非難」してよい。
 「組織犯罪」の場合、だから、事故現場に近ければ近いほど、かかる非難を受け、逆にトップは知らないこととなる。それが市民の「怒り」の原因となる。
 だが、これは、『「近代刑法」で現代社会の「組織犯罪」を処罰する』、という無理な問題解決を求めるからだ。
 その意味で、今回の事故について、歴代社長を被告人の地位に置いてみる、さらけ出す、さらし者にする、、、そんなこととなる市民の決断も長い目では、組織の体質改善にはつながるのかも知れないが、やはり「個人過失」の枠を超える。
 今回の歴代社長起訴相当が「過失」の標準になるのであれば、こんなことになる。
 第1。我が国の法定最高速度を超える運転によって交通事故が発生し人が死傷した場合、その自動車メーカーの歴代社長は業務上過失致死傷で処罰されてよいこととなる。
 第2。プールで溺死事故が発生したとき、これを運営する自治体などの長は当然に業務上過失致死罪で起訴されるべきこととなる。
 第3。交差点では赤の表示となる車線には停止壁がせり出てくる装置をつけるべきで、これがないまま交差点を運用する自治体、国、信号機設置を決める公安委員会などの長は、交差点進入事故について刑罰を免れない、、、。
 要するに、「個人過失」が無限に広がる。
 だが、これは市民社会自身が拒否するはずだ。

■ 「組織犯罪」の規制と事故防止
 その意味で、今の社会経済構造を基本的に是認しつつ、なお強大化した「組織」による「犯罪」で人間個々人の社会生活がだいなしにならないようにするには、すくなくとも次のふたつのシステムが要る。
 (1)社会にサービスを提供する組織・企業・経営体・集団なんであれ、これに伴う「リスク」が市民に被害を及ぼすことのない運用を目指すコンプライアンスの徹底。ここでは、組織を構成する個々の市民の意識が重要な意味を持つ。
 (2)これに違反したとき、直ちに「個人の責任追及⇒犯罪と刑罰」と短絡的に処理せず、「事故」は「事故」と割り切り、被害関係者も参加する事故防止の「フォーラム」で対策を検討すること。ここでは、市民社会が、例えば、一定期間はJR福知山線の運行休止をがまんする、といった「痛みを分かつ」ことを覚悟してでも、「組織と企業」から「市民社会と個人」を守らなければならない。

 そこで、各紙に次のコメントを掲載してもらった。
 
■毎日新聞2010年3月27日(朝刊)
法律解釈超えた
 過失責任の取り方としては行き過ぎで、法律解釈を超えた判断だと思う。自動列車停止装置の未設置をとらえ、刑事罰を行使するのは問題だ。ただし、こうした判断が出ても、検察審査会自体が否定されるものではない。法律の手続きに従い市民の怒りが表面化したのは意義があり、市民からの問題提起ともとれる。今は試行錯誤があっていい。今回は、市民の怒りが法律の枠を超え処罰を求めたと言えるが、法律の専門家である裁判官に改めて判断してもらうしかない。

■読売新聞2010年3月27日(朝刊)
議決は行き過ぎ
 従来の個人の過失責任のとらえ方を大きく踏み越えており、行き過ぎだと思う。ただ、市民が法の枠を超えてまでも処罰すべきと判断した事実については、重く受けとめなければならない。こういう大規模事故を防ぐために市民参加型フォーラムをつくるなど、市民の意思を反映させられるような新たな施策が必要ではないか。

■神戸新聞2010年3月27日(朝刊)
法律の枠組み超えた判断
 これまで大規模災害の際、再発防止の手だてを市民が参加し、前向きに検討する場がなかった。議決は法律の枠組みを超え、企業の経営者責任を問う市民の怒りを表した。司法の市民参加が目的の改正検察審査会制度の意義とも一致する。ただし、プロフェッショナリズムの法律家から見て、議決は個人過失を踏み越えた処罰を求めるもので、納得しかねる。裁判では、個人過失の枠組みを超える部分を冷静に判断するべきだ。また、公訴時効が4月30日に迫る。指定弁護士は業務上過失致死傷罪の成立に必要な注意義務を見いだすため、困難な作業を強いられる。

posted by justice_justice at 07:34| ■(ケース)JR福知山線事故■ | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。