2008年05月27日

■広島旅行記ー原爆体験記、三輪車、お好み焼き


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■『原爆体験記』のこと
 この本が手元にある。『広島市原爆体験記刊行会編・原爆体験記』(朝日新聞社、1975年刊)。これを2008年5月24日、広島原爆資料館で買い求め、26日月曜日、霞ヶ関での用事を終えて、東京駅から明石に戻る新幹線の中で読み終えた。正確に言えば、、、再読し終えた。

■40年前のひとこまのこと。
 歴史をはるかに遡る。
 中学1年の頃といえば、いまから40年前か。昭和41年頃と思う。札幌の郊外にある市立白石中学校1年のとき、図書室が保護者父兄向け文庫を設けて貸し出すという。同校の卒業生であった兄等にその話をすると、なにか借りてこいという。そこで、なるべく難しそうな本を2冊選んだ。
一冊は『日本国憲法制定史』。今から思えば、平和憲法擁護の立場から憲法制定の成り立ちをまとめたものではなかったか。もう一冊が、白い厚紙を表紙にした、いかにも装丁の悪い、安物に仕上げた、『原爆体験記』であった。
 なにが、こんなタイトルの本を2冊も選ばせたものかよくはわからない。が、今に至る自分のキャリアと考え方の土台を思うと、どうも偶然の一致ではないように思う。


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 もっとも、劇的に人生を変えた2冊、というほどでもない。借りた2冊。案の定、兄二人は、卒業生として図書を借り出せたことに満足して、後は見もしない。日本国憲法史は中学1年生には難しすぎた。あきらめた。原爆体験記は、むさぼるように読んだ記憶がある。おそらく一気呵成に読んだのではないか。その悲惨な体験にざっくりと心をえぐられながら。

■広島のこと。
 この名前が心に刻み込まれたのは、この本によってである。当時、札幌の片田舎にいた自分には、内地(と北海道の人間は本州を呼ぶ)の遠くにある広島なる場所には行き方もわからず、行く術も資金もなくただただ遠い思いを抱きながら、原爆ドームを思い描いた。
 先日、勤務先法科大学院の関係で広島に出向いた。広島には、その後もおりおり訪れる。大学関係で広島の仕事があれば好んで選んだ。そして、必ず、平和公園には足を運ぶこととしている。


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ドームと資料館、両方がどちらかに足を運ぶ。これから自分が死ぬまではそうすることと思う。今回のその一こまであった。いつもそうしているように、あの札幌で読んだ本はどうなったのかと思いめぐらしながら、ショップの本のコーナーを見ていた。「ある」。同じタイトルだ。装丁は朝日選書としてきれいになっているが、同じはずだ、、、胸の高鳴りを覚えつつ、開いた。記憶がよみがえる。中学1年のときに読んだ記憶がよみがえる。いくつかある。


■「浅ましい」と「貴女」のこと
 第1編に主婦の北山二葉さんの被爆体験が載る、その中の言葉だ。
 顔を含めて火傷を負った。避難の途中に偶然にも姉に出会い助けられる。そのとき、姉が、二葉さんをみて「可哀そうに、こんな浅ましい姿になって」という、その「浅ましい」という言葉が、当時読んだときにも聞き慣れぬ、読み慣れぬ言葉であったことを今も覚えている。「こんなふうに浅ましいという言葉を使うのか」と感じ入った。その記憶が、ショップでよみがえる。「これだ、この本だ」。
 第2編に県の事務員であった男性の手記がのる。ピカドンの一瞬前に、仕事に使う書類を事務所の地下庫に取りに降りる。それが幸いして助かったようだ。その地下庫に降りる直前のことをこう記していた。
 「下りる前に、自分はめがねを外し、財布をズボンのポケットから出し、そしてズボンのバンドに巻いてある鎖を解いて懐中時計を出し、机上にこの三点を揃えて地下室へ下りて行った。この品はもちろんみな焼いてしまったが、何故そんなことをしたのかは五年後の今日どうしてもわからない」。
 確か、当時住んでいた家の屋根裏を改造したウナギの床のような自分専用の部屋でこの箇所を読んで「くすっ」と笑ったのではないか。それで、この箇所をよく覚えている。当時13才か14才であったか。
 第3編。福屋ビルで軍関係の事務についていた当時21才の土井貞子さんが友人に助けられて命を長らえた手記もよく覚えている。何故なら、ピカドンの後、暗闇の中で、自分に声をかけた同僚がいる。「誰なの。私増本よ。貴女は」。また、「貴女歩ける?私は負傷していないから大丈夫・・・」。記憶に載っている理由は、ここにある。当時は、本は旧仮名遣いで印刷されている。漢字も旧字体であった。その中に「貴女」とある。実は、読み方が解らなかったのだ。「きじょ????」、名前か?なんだこれは?と思った記憶がある。「あなた」と読めばいいことを知るのは、もう少し後のこととなる。そして、今も繁華街の中央にある福屋百貨店がこの場所であることを知るのは、大学生になって広島をはじめて訪問したときのことであった。
■『三輪車』のこと


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 この体験記は、昭和25年に当時の広島市長が市民から募った手記から選書にしたものとか。
 しかし、占領軍の反対にあって出版できずに市役所の倉庫に眠っていたのをその後出版したという。ただ、自分が中学校の図書室から借り出して読んだ冊子は、どうも朝日新聞社が出したものではないように思う。札幌の田舎の中学校に昭和25年に占領軍が発禁にした冊子が届いていたのか、、、日教組はなやかりし頃なので、あるいはそうした関係で教師の誰かが保護者用文庫にそっとこの一冊をおいたものかもしれない。
 大学1年の夏にはじめて広島に行った。以後、数年に1度通っている。その内、資料館であたらしい展示品に接した。三輪車だ。鉄谷伸一君の三輪車だ。1945年8月6日、午前8時15分、家の庭で三輪車で遊んでいて被爆してその日なくなった3才11ヶ月の男の子。家族は、遺体を庭に埋めた。さびしかろうと思って三輪車も一緒に埋めた。1985年、父親が骨を掘り出して寺に納骨した。一緒に埋めた三輪車は、資料館に寄贈した。それが、展示されている。この三輪車の前に立つと、涙がとまらなくなる。

 「反戦、平和、自由と民主主義」。

 毎日毎日そんな顔をしているわけではない。また、これが生き方の原点とまでは言わないし、命を賭しても守る勇気もない。だが、とりあえず、この原理は守るつもりでいる。
 そして、この原点が芽生えたきっかけは、中学1年のとき、札幌の片田舎で読んだ『原爆体験記』である、と今更ながら整理しても、不自然でも、付け焼き刃でもないと思っている。
 当然ながら、、、平和公園の後は、お好み焼き村でお好み焼き〜全部入り〜を食べることにしているのも、私の原理である。

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posted by justice_justice at 00:25 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする
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