2008年03月24日

■「施無畏印・与願印」−西村公朝仏師と印相


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■仕事柄、仏像関係の入門的な本が少し手元にある。なかでも西村公朝氏の仏像関係の本をいつも手元に置いている。
 読み始め、読み終わり、というよりもおりにふれて仏像のあれこれを知るために繙く。

 先日から、印相のうち、「施無畏印・与願印」のことがなんとなく気に掛かっている。
 というのも、編者が、何気なく説法などのために、印相を模するとき、左手を上に開き、右手を下方に開く「クセ」がある。
 が、通常、お釈迦様、阿弥陀様は、右手を上に上げて手のひらをゆったりと開き、衆生に向けるー「畏れ無きを施す」、つまり施無畏である。
 そして、衆生の願うところを与えるー「与願」を、左手を下に向けて手のひらを広げて置く。
 どちらの手をどちらにしてもいいといえばいいー各地の仏像など見ていると、左手=施無畏のものも少なくない。

 もっとも、多くは、観音など阿弥陀、釈迦の脇を勤める仏像だ。
 自ずと、自戒せざるを得なくなるー印相は悟りの格を示す。まだ、釈尊を真似て、右手を施無畏の位地における境地にはないことを体が示しているのだろう。であれば、そうしておこう。
 
 「説法印」ないし「転法輪印」。お釈迦さまが、悟りを開かれた後、最初の説法のときの印。
 「上品・中生印」であったという。これも、説法を聞く衆生の属性によって変えているとも聞く。また、悟りの深さを表すものでもあるようだ。
 説法印は、だから、「下品・下生(げほん、げしょう)印」を使うことにしている。

 世俗にまみれて、折々お経を読む程度のボーズが、「施無畏・与願印」で説法をするのは、100年早かろう。
posted by justice_justice at 05:14 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする
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