2007年08月22日

■"The Lincoln Lawyer" by M.Connelly-刑事弁護の本質


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■ヒースロー空港で今年3月に買った小説をようやく読み終えた。仕事上、小説といえば、どうしても犯罪・裁判・捜査・弁護ものになる。これもその一冊である。ただし、「趣味」で読む小説なので、それ自体がおもしろければよく、この小説と作者がどれほどアメリ・日本・世界で有名か無名かは、知らない。「趣味」に蘊蓄はいらない。
 ともあれ、おもしろかったー「答弁取引」ばかりで稼ぐ刑事弁護専門弁護士が、不動産財閥の跡取り息子の売春婦殺人未遂の弁護を引き受ける。
 実は、前に彼が仮釈放可能な無期懲役で手を打つようにすすめた依頼人の事件ー殺人事件の真犯人であることが、調査の過程でわかる。
 しかも、巧妙な犯人は、自分の陪審法廷がはじまる直前に、主人公弁護士に、「両方の事件とも真犯人は自分だ」と打ち明ける。守秘義務で縛りをかけるためだ。ー弁護士の真実義務か倫理遵守かを選択させることで、弁護士を自分の味方に引きつけておこうとする。
 殺人未遂法廷は、若手検事の勇み足で有罪立証が破綻する。反対尋問のみごとな技法が、そこここにちりばめられている。
■ 最後の結末は、案外あっけない。息子を庇うために大金持ちの母親自らも殺人を繰り返しており、主人公も「息子を私から奪えない」と脅す母親の銃弾に倒れるが、からくも正当防衛で射殺に成功。息子も、警察が監視下においていて、主人公はえさに使われただけ、、、
■ 「法廷」で真相を解明する。この不思議な舞台装置。しかも今までは、ここで捜査段階で警察などが集めた書類を裁判所に引き渡し、裁判官は裁判官室でじっくりと資料をよんで、いわば推理小説をみずから解決する感覚で「犯人、みつけたり!」とやっている。
 だから、証拠から事実を推認する、という基本構造はあるが、実のところ、「資料をもとにレポートを上手にまとめる」というのに近い作業が、「刑事裁判」として行われきた。
 概ねこれで健全に司法は機能する。しかし、その中に、小説の主人公も見逃したように、えん罪・無辜・無実が交じる。そのときにも、裁判官は有罪資料で有罪を「説明」する。この作業と、証拠の重みから事実を推認すること、証拠の重みが示すなまの人間を読み取ること、、、刑事裁判にとってもっとも大事な作業とを混同する。そして、人間をみれなくなる。
 日本の裁判官は、書類で人と社会を裁く。「調書裁判」の弊害に陥る。
■ 他方、リンカーン数台に記録を積んで走り回る小説の主人公ーミッキー・ハラーも、陪審裁判の特殊性を熟知した法廷戦略・法廷技術を駆使して、クライアントを刑事裁判から解放する。証拠の重みとともに、法廷パフォーマンスが重視される。証拠収集や法廷技法のささいなあやまりで、事実を裁く証拠の重みをくつがえす。「ゲーム裁判」となる。
■ 有罪の作文に向いている「調書裁判」か、ゲーム感覚の「公判中心主義」か、、、。
 一長一短なのかもしれない。裁判員裁判はどうなるものやら、、、

posted by justice_justice at 08:12 | TrackBack(0) | ●教養ー読書 | 更新情報をチェックする
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